読書ノート 2006-2
『江戸開幕』日本の歴史12(集英社 藤井譲治)豊臣氏滅亡
1615年(慶長20)5月7日の夕刻、秀吉が築いた天下の名城大阪城は炎に包まれた。
そのなかを秀頼夫人であり秀忠の娘でもある千姫が、家康の陣へ送り届けられた。
千姫の大阪城脱出については、坂崎直盛の活躍がしばしば俗書に伝えられているが、
大野治長が千姫を大阪城から脱出させることと交換に、家康に秀頼母子の助命を乞うたのが真相のようである。
『大阪の歴史を歩く』(創元社 大谷晃一)大坂城炎上・淀君
慶長20年5月7日の夕方、天守閣が燃える。秀頼と淀君は追いつめられて山里曲輪に逃れ、焼け残った倉に隠れた。
翌8日、これを見つけたのは、いまは徳川方の片桐且元である。
家康の孫で秀頼の妻になっている千姫と引き換えに、大野治長は秀頼と淀君の助命を嘆願した。
家康は相手にせず、千姫は大阪方の助けで脱出する。
『街道を行く1』(朝日文庫 司馬遼太郎)津和野から益田へ(長州路)
江戸期には、この一国(石見)に2つの小さな藩があり、いずれもおだやかな藩風をもっていた。
浜田に城をもつ松平家6万1千石と津和野を主城とする亀井家4万3千石である。
津和野藩はすでに幕命をうけていた。
長州と戦わねばならず、しかもその先鋒として国境を越えるべきであったが、しかしいちはやく長州藩に内通して敵意のないことを示さざるをえなかった。
小藩である津和野藩の悲痛さはそこにあるであろう。
幕府からは、軍(いくさ)目付として長谷川久三郎という者が乗りこんでくる。
この長谷川に対する応接は、国学者福羽美静の父の幸十郎が担当し、一方、長州藩に対しては、子の美静が出かけていって、
幕長戦争のとき、長州軍は津和野藩を攻めずその藩領をかりて通過し、益田にあつまっている幕軍に痛撃をくわえ、撃退した。
『日清・日露戦争』日本の歴史18(集英社 海野福寿)日露戦争の動員
動員数 1,088,996
死者数 81,455 (戦闘死者数 60,031 病気死者数 21,424)
入院者数 381,313(戦傷入院者数 130,203 病気入院者数 251,110)
大江志乃夫「日露戦争の軍事史的研究」より作成
『白い航跡』(講談社文庫 吉村昭)日清戦争の犠牲者 海軍=米食を避け、麦食を重んじる
陸軍=主食は白米6合
日露戦争の犠牲者 海軍=米食を避け、麦飯を主食とする
陸軍=主食は白米6合
南極大陸に、高木の岬と名づけられた岬がある イギリスの極地研究所から日本の極地研究所にそのことがつたえられたが、研究所では高木とはだれか、知るものはいなかった。
その岬を名づけた由来として、「日本帝国海軍の軍医総監であり、1882年、食餌の改善によって脚気の予防に初めて成功した人」という
説明が付されていて、これによって高木とは高木兼寛であることがあきらかになった。
『フロイスの見た戦国日本』(中央公論新社 川崎桃太)信長の人物像(フロイス) 信長は尾張の国の2/3の主君なる殿(との、信秀)の第2子であった。彼は天下を統治し始めたときには37歳くらいであったろう。 彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、髭は少なくはなはだ声は快調で、極度に戦(いくさ)を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。 彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。幾つかのことでは人情味と慈愛を示した。 彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。 貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、劇昂はするが、平素はそうでもなかった。 彼はわずかしか、またはほとんどまったく家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。 酒を飲まず、食を節し、人の取り扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。 彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。 彼は戦運が己に背いても心気口闊、忍耐強かった。 彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。 形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大にすべての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。 彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賤の家来とも親しく話をした。 彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることをはなはだ好んだ。 何びとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。 彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たってははなはだ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。 安土城を訪れる(川崎桃太) 天下を取った信長は、都に近い安土を戦略と経済の要衝と定め、それまで誰も考えたこともなかったような、新規で豪華な居城を構えることにした。
安土山の頂上に天守閣を築き、華麗な館と御殿を配し、麓から山腹までを家臣団の屋敷で固めた。
入口と上部に監視所を置き、高い石垣に囲まれたそれらの屋敷は、それ自体が手ごろな城をなしており、山全体が城塞として機能するよう考案されていた。
安土山は、今もそこを訪れる者を過去の夢に誘ってくれる。
信長時代の安土山は、湖の水が入江となって麓を取り巻いていた、と記述にはある。
もしそうだとすれば、当時湖面をなしていた相当量の面積が、今では干拓地に変わったことになる。
狭い西側の入口から石段を登り、樹木に覆われた小路をしばらく行くと、突如、周囲を圧するように、巨大な石の城壁が右手に現れる。
その昔華麗な七層の天守閣が聳えていたとされる跡地がその先にある。
ひからびた固い土に覆われた高台の一角に立てば、美しい湖水が望見される。信長も塔の外廊からこの眺めを楽しんだことだろう。
信長は4年の歳月をかけてここに城を完成させた。すべての工事が終わったのは、1579年(天正7)のことであった。
現在では模型を通してその輪郭は知られてきたものの、天守閣を含めた城の全貌を正確に伝えることのできるものは誰もいない。
そうなると、信長に招かれて城をつぶさに観察したフロイスこそ、安土城を後世に伝えるうえでの最高の適任者といえるだろう。
安土城(フロイス) 信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗において、それらはヨーロッパの最も壮大な城に比肩するものである。
‥‥塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。
事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。
外部では、これら(七層)の層ごとに種々の色分けがなされている。
あるものは‥‥黒い漆を塗った窓を配した白壁になっており、‥‥他のものは赤く、あるいは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている。
この天守は‥‥堅牢で華美な瓦で掩われている。
フロイスと文禄の役 ○ どうして秀吉はこのように無謀とも思える出兵を企てたのでしょう。(川崎桃太)
秀吉の晩年には常軌を逸した言動が目だった。独裁者が陥る傲慢と慢心のなせる業ではあるが、秀吉の場合はさらに無知と自惚れが加わり、国全体を計り知れない恐怖と不安に陥れた。信長は海外への野望があったにしても、宣教師にまでひけらかすようなことはしていない。
秀吉の海外侵略には、全国の領主をこの戦役に駆り立てて、彼らの軍事および経済力を消耗させる意図が隠されていたのかもしれない。徳川幕府の参勤交代がそうであったように。独裁者は自己の権力と名誉と財産を守るためなら、どんな卑劣で残酷なことも平気で命じたり、行ったりする。
○ なぜ誰も反対しなかったのでしょう。(フロイス)
日本人はもともと他国民と戦争することでは訓練されていない。(シナへの)順路も、航海も、征服しようとする敵方の言語や地理も、彼らにはまったく知られてはいない。
この企ては、海路、軍団を派遣することになるが、内陸の海から距たった地方に住む君候や武将たちは、船舶も水夫も、航海に際して必要とする他の手段も持ち合わせてはいなかった。
一同は彼の面前では多くの言葉を弄し、かくも崇高で道理に叶い、時宜を得た企画を決行することは、高尚な目的を伴う永久に記念さるべき偉業であると述べ、その決定を賞賛してやまなかった。
自らの決定にあえて背反するような無謀なことを行う者があれば、その者はただちにその無遠慮のゆえに死滅せしめられ、領土は破壊されよう、と語って、一同をこの上もない恐怖心で打ちのめした。
安土城の炎上
安土城には、光秀娘婿の明智秀満が入っていたが、山崎の戦いの悲報を知ると、14日、軍勢をまとめて坂本城に移った。そのさい、秀満は安土城に放火したと小瀬甫庵の「太閤記」などは記すが、ぬれ衣である。安土城が焼失したのは15日であるが、その日秀満は坂本城で堀秀政に包囲されていた。そして光秀の妻と2人の男子、自分の妻(光秀娘)を殺し、天守に火を放って自害した。
ルイス・フロイスの報告や「日本西教史」は、秀満のあと伊勢から入った織田信雄を安土城放火の下手人とするが、これも推測であって根拠にとぼしい。山崎の戦い後の混乱の中で、略奪に入った野盗の類が放火した、とみるのが自然であろうか。
朝鮮出兵について
家臣団の知行高を増やすために、日本はおろか「唐国まで」も征服しようと秀吉は努力しているのだと言って、知行高が少ないことに対する不満を外にそらそうとした。
関東・奥羽に対し、強引に惣無事令を押しつけて国土統一を果たしたときも、「まもなく唐国まで征服する」と宣伝して不満をそらそうとした。
土器の出現 縄文文化は、世界的に稀にみる定住的で豊かな採集社会の文化として8000年以上にわたって発展するのである。 主食としての木の実 中部地方よりも東の東日本の地域は、落葉広葉樹林の地帯(ナラ林帯)だが、クルミ、クリ、トチの多くはこの地域で出土している。 そのうえにドングリの中の落葉樹性のものを加えると、東日本のナラ林帯の食料資源は、西日本の照葉樹林帯に較べて量的に大へん豊かなことがわかる。 さらに、照葉樹林性のドングリのみから成る照葉樹林帯の木の実のセットは澱粉質の木の実ばかりであるが、 ナラ林帯の木の実のセットの中には脂質と蛋白質に富むクルミが含まれていて、質的にバランスがよくとれている。 そのため、ナラ林帯の木の実のセットは、照葉樹林帯のそれに較べ、食料資源としての価値が大へん高いということができる。 縄文人口の分析 河川を遡上してくるサケやマスなどの資源については、東日本に著しく偏在し、西日本に乏しい。
『小中学校の日本史を20場面で完全理解』(PHP 向山洋一編)三内丸山遺跡について ○ 遺跡(集落)の広さはどれくらいあるでしょう 100軒近い竪穴住居や倉庫などが計画的に配置され、集落の広さは東京ディズニーランドの3/4ほどだった。 ○ ここに住んでいた人々の主食は何だったでしょう どんぐりや栗など木の実を採集したり、栽培したりして、それらを主食にしていた。 ○ 縄文時代の人々の平均寿命はどれくらいでしょう 食糧は不足しがちで、病気を治す医者もおらず、現在よりはずっと短命で、平均30歳程度だった。
秀吉の朝鮮出兵について ○ どうして秀吉はこのように無謀とも思える出兵を企てたのでしょう。 秀吉の政策システムに原因があったとする見解が、真相にもっとも近いようです。
領土拡張を進めてきた秀吉ですが、国内にその余地がなくなってしまったために、領土を海外に求めざるをえなくなったのでした。
『縄文の生活誌』(講談社 岡村道雄)三内丸山遺跡は、なぜすごいか 三内丸山遺跡は、今から5500年ほど前、縄文時代前期中頃から中期末までを中心に、およそ1500年続いた大規模集落の跡地である。 青森市の郊外、青森湾に注ぐ沖館川の右岸台地上に位置し、年間50万人近い見学者が訪れる、日本有数の遺跡となっている。 その広さは35ha、東京ド−ムが7.5個入る。ここだけで、500人近い人々が住んでいたと推定されている。 際だった特色としては、以下の6点があげられる @ 大規模な土木工事によって造成されたと思われる集落であること A 大型の掘立柱建物や集落中央の尾根筋を通る道を中心に、きわめて計画的に構成・配置された集落でもあること B 自然の恵みに加えて、クリなどの栽培も取り入れた安定した経済が営まれ、長期にわたって定住生活が続いたこと C 木製・骨角製を含め、多様な道具が多数使われ、良好に保存されていたこと D 他種類の遠隔地物品が発見され、遠隔地との交流が認められたこと E そして、以上見てきたような、進んでいた縄文文化の実像に関する多様な要素が、総合的に存在した遺跡であること
『日本社会の誕生』日本の歴史1(岩波ジュニア新書 吉村武彦)縄文時代観の転換−鷹山遺跡群と三内丸山遺跡 直径1mと推定される6本の丸柱の大型建造物や、長さが30mという大型竪穴住居が復元され、話題になっている。しかし、縄文遺跡としては、住居跡の多さが注目される。
同時期に生活していた人口は、50人から、多くても120人程度が妥当のようだ。
一部に500人説も主張されているが、遺跡は1500年も続いており、過大な数値だという。
したがって、「縄文都市」というような遺跡の評価には、疑問をもたざるをえない。
『手堀り 司馬遼太郎』(角川文庫 北山章之助)歴史からみた日本人論
彦根藩というのは、有名な幕末の大老・井伊直弼を出した譜代の雄藩といってもいい、井伊の赤備えというのは昔から有名で、
関ヶ原の戦いも、大阪の役も、常に徳川軍の先鋒となって戦った武辺の家柄なんですが、鳥羽伏見の合戦前後には、かなりおかしくなっていた。
この時期の彦根藩は、悲劇的、あるいは喜劇的かもしれません。どうしようかと思い迷って、これはきわめて異例のことですが、
大衆討議にかけた。300年の徳川体制ののなかで各大名を通じて一度もなかったことです。これまでは藩主が家老たちとはかって
ことを決めてきたのに、今回は処置に困って全藩士にはかった。上士以上の石取武士が城内に集まる。何人扶持といった下士たちは、
城下の寺に集まった。両者をあわせると1万人を越える。35万石ですからおおぜいです。
ところが札入れをしたら、徳川のために戦おうという意見が、3票しかなかった。
西郷と蔵六
戊辰戦争の論功行賞
西郷隆盛2000石
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