読書ノート 2006-1
『博士の愛した数式』(小川洋子)もっと頭が柔軟だったころに
友愛数だの
あはは‥
『旅の途中で』(高倉健)ご存じ、高倉健さんのエッセイです。
読み急がないように
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ようやく、今年の抱負がひとつ誕生しました。 早寝早起き
『赤・黒』(石田衣良)ご存じ、石田衣良氏の
いつものマコトは登場しませんが
生きているのが嫌な朝でも、
衣良氏特有の表現の一つだと思いますが
『神はサイコロを振らない』
いつもと違って‥
テレビはすでに第2回に入っていますが
そんなものだと思います。 両方とも楽しめます。
『天文学入門 - 星・銀河とわたしたち』(嶺重慎・有本淳一 岩波ジュニア新書)宇宙の誕生 137億年前
恐竜の絶滅・ほ乳類の繁栄 6500万年前
縄文時代のご先祖 5000年前
人間のわがまま(を書いた小説)から離れたくなって、
結論は、人間に戻るようです。↓ 「唯一ではないとしても、きわめて貴重な存在」、
『雨鶏』(芦原すなお)芦原すなお作『雨鶏(あめどり)』より ぼくはルーズリーフに書いた。
慈母観音のごときあーちん様。心からの感謝をこめて、金二千円也をば借用いたします。そのうちきっと返しますからね。1970年、5月2日、晴れ。山越只明、安根からっけつ。
読んだあーちんは5月2日の風のように爽やかにほほえんだ。 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 強烈な雨の降るときに自転車をこいでいた私の鞄は、実は中が空いていたわけで、おかげでこの本が雨に濡れてしわしわになった次第ですが、中味の可笑しさは変わりませんでした。 5月2日の風が爽やかだったかどうかを検証する手だてがないのが残念です。芦原すなお氏は、あの『青春デンデケデケデケ』を書いた人で、この作品はその続編にあたるようですが、文庫本になるまで待つということは9年も待たされるということのようです。
『日本地図』(朝日新聞社)平成大合併がわかる
それで‥
飽きることなく、である。
『国家の品格』(藤原正彦)目次より第1章:すべての先進国で社会の荒廃が進行している。その原因は、近代のあらゆる
第2章:「論理を徹底すれば問題が解決できる」という考え方は誤りである。帝国主義でも共産
第3章:自由と民主主義の概念は欧米が作り上げた「フィクション」である。民主主義の前提条件、
第4章:自然への感受性、もののあわれ、懐かしさ、惻隠の情‥‥。論理偏重の欧米型
第5章:鎌倉武士の「戦いの掟」だった武士道は、日本人の道徳の中核をなす「武士道精神」へ
第6章:「情緒と形」の文明は、日本に限定すべきものではない。そこには世界に通用する
第7章:日本が目指すべきは「普通の国」ではない。他のどことも徹底的に違う
今どきのベストセラーになっている本である。
『スローライフ』(筑紫哲也 岩波新書) 学者から神奈川県知事になった長洲一二氏(故人)をわたしは尊敬していたが、
それ以上に会うたびに話が楽しい人だった。その長洲さんの持論のひとつが「人生七掛け説」だった。
おかげさまで、わたしも随分若返ったという、いい話でした。 ちなみに七福神とは次のような神のことであり、それぞれに「福」の内容がちがう。
「五反百姓」という言葉があるが、大山町はそれにも満たない平均反数4反(約40アール)の、県内有数の貧農地帯だった。”夜逃げ村”という別称まであった。
つまり、1反が約10アールだということを記録しておきたかっただけである。
『初めての部落問題』(角岡伸彦 文春文庫)最近の研究では、江戸幕府が民衆を分断支配するために士農工商穢多非人の 身分制度をつくったという近世政治起源説は否定されてる。 部落とは、「かっての賤民身分であった穢多、非人のうち、とりわけ穢多身 分とされる人々が集住してきた地域」と言うことができる。 1871年(明治4)に賤民制が廃止された。しかし、旧賤民は「旧穢多」 「新平民」などと呼ばれ、戸籍に明記されるか、部落民だけ別に綴じられるケースもあった。 身分はなくなったが、身分差別は残ったわけである。 部落民は、次のように定義できる。 明治時代に特殊部落民と呼ばれた人々及びその子孫。現在は@現住所が部落にある者、 A生まれと育ち、または本籍地が部落である者、B少なくとも一方の親が@かAの要件を満たす者。 私は地縁と血縁で何らかの関係がある人、周辺に位置する人を「部落関係者」と呼んでいる。
部落民の行政用語である「同和関係者」から借用したものである。お父さんが部落民?部落に住んでいる?
だったら関係ないとは言えないんじゃないですか?部落民に見られることもありますよ、どうします?
そういうわけで、わたしも「部落関係者」である。さっさと、こんな馬鹿げた差別はなくしたいと思う。
『遙かなるケンブリッジ』(藤原正彦)確かにイギリスには、変わった人物が多い。 風変わりなことを容認する社会であるようだ。 子どもの授業参観でも、算数の時間に絵を描いている子がいたし、 絵の時間に本を読んでいる子もいた。 先生も仲間も、それに対して何も言わない。 本人が幸せである限り、誰も干渉しない、というのがしきたりになっているようだった。 オーストラリアの場合も、同じことを読んだことがある。同じアングロサクソンだからね。
こんなジョークをどこかで読んだ覚えががある。
「無人島に男2人が漂着した。男たちがイタリア人なら殺し合いになる。
フランス人なら一人は夫、一人は愛人となってうまくやる。
イギリス人なら、紹介されるまで口をきかないから何も起こらない」
日本人はいつもみっともなくて、やはり、イギリス人が一番面白い。
『ワイルド・ソウル』(垣根涼介)1961年、衛藤一家は希望を胸にアマゾンへ渡った。 しかし、彼らがその大地に降り立った時、夢にまで見た楽園はどこにもなかった。 戦後最大級の愚政<棄民政策>。その40年後‥呪われた過去と訣別するため、ケイたち三人は日本国に宣戦布告する。 もし、映画化されるとしたら、前半部分が大変だなと思いつつ、見たいな‥と思ってしまいます。
いえ、映画化なんて話は、今のところありませんが、あってもおかしくないと思います。
『数学者の休憩時間』(藤原正彦)
帰国後の人生は悲惨に近いものだった。
◎使節の主席だった伊藤マンショは、迫害の中で布教を続けたが長崎で死去。
◎千々石ミゲルは苦悩の末に棄教したが惨めな晩年を送ったと言われる。
◎原マルチノは家康の禁教令により国外追放となり、マカオに十五年滞在した後、望郷のうちに死去。
◎中浦ジュリアンは教会が使えなくなった後も、追っ手を逃れるため伝道の場を次々と変えながら、北九州を中心に布教を続けた。
潜伏中の信者たちを山中の廃屋に集めて聖書を講じたり、夜陰に乗じて移動したりした。
絶え間ない密告や裏切りに悩まされながら、偽名や変装までを用いての決死的伝道を続けていたが、
1632年に捕吏の手に落ち、厳しい拷問の後、長崎西丘で処刑された。
父の足跡を追って、ポルトガルまでやってきた作者が「少年使節」の帰国後のことをまとめてくれたわけで、
このことにふれたものに出会っていなかったから、とても貴重な記述でした。
『数学者の言葉では』(藤原正彦)
一世、二世、三世の違いは、先の天皇訪米の際に顕著に表れたという。カリフォルニアに住む一世の老人たちが、
日本人会で盛大な歓迎レセプションを提案したのに対し、二世の間では歓迎行事反対の声が支配的だったそうである。
訪米当日も、一世たちが感涙にむせびながら万歳を唱えるのを横目に、付き添いの二世は冷ややかな表情だったといわれる。
ちょうどそのころだったが、サンフランシスコに住む三世のベバリーから私に手紙が届いた。
法律事務所でタイピストとして働く彼女が、一日の仕事を終えてビルの外に出て見ると、大勢の警官がいて日の丸の旗が
あちこちで振られていたという。
「通行人に聞くと、日本の皇帝が通るのだと言いました。興味が少しわいたので、よく見える所まで行って待っていると、
しばらくして皇帝が車でやって来ました。年を取ってはいるけれど、なかなかハンサムなので好きになりました」
三世は、あくまでもアメリカ人なのである。
飛行機のエンジン音が高くなると間もなく、JAL643便は滑走路を猛然と走り始めた。雄壮な離陸を初めて見る女房は
子どものように目を輝かせている。何度も経験のある私の方が、手に汗を握り顔をひきつらせている。
ほとんどの航空機事故は離着陸時にあることを思い出す。女房はたぶんそんなことは知らないし、たとえ知っていても
ずうずうしいから気にしないだろう。離着陸恐怖症の私は祈るような気持だった。
何故か、どうせ落ちるのなら帰りに落ちて欲しい、と強く思った。
わたしも‥どうせ落ちるなら日本の空で、と思ったことがある。もちろん、離着陸は未だに怖い。
『父の威厳 数学者の意地』(藤原正彦)女房だけは藤原家の伝統に逆らう。訓練しようとしても、わたしがスピードを上げると、ついて来ようとしない。 「置いて行くぞ」と脅かすと、「どうぞ」と言う。仕方なく私がスピードを落とし並ぶことになるが、 「他人が見ると夫婦と思うから少し離れて」などとイヤ味さえ言う。 わが家の場合は、反対です。イヤ味は言いませんが‥。 「昔の日本には砂糖がなく、甘味といえば柿しかなかった。実に貴重なものだった」と力説したりする。 子どもは黙って聞き流すし、女房は「あなたの味覚は、そのころの人間以上に発達していないようね」などとたわけたことを言う。 女房はともかく、強く正しい血を継ぐ息子たちには、柿の醍醐味を教え、柿への愛情を育てようと、 時には戸主としての柿食い命令を下したりする。もっとも、「柿を食べた者にはチョコレートをあげる」などと卑屈に出ることもある。 いつもの、イギリス的ユーモアの一つに過ぎないと思って、軽く受け流す方が得策です。ほとんど、負けているはずです。 あるところで、「あなたのような人間と一緒に生活を続けるのは、とても消耗する」と彼女が言っています。かなりの忍耐強さが必要な気がします。 続いてポルトガル人はキリスト教布教に力を入れ、九州を中心に信者を急速に増やし、1582年には天正少年使節が、リスボンを経て ローマ法王に謁見するに至る。また彼らの持ち帰った活版印刷機により、数多くの宗教書、文学書、ラテン語や日本語の辞典などが 出版され、旺盛な文化活動が促された。 中国からヨーロッパを経て、日本にようやくたどり着いた活字(および印刷機)が、このあと日本の歴史上から消滅してしまうのが残念です。
これがあれば、日本でも、宗教改革やら、市民革命やらが起こったのかもしれないと思ってしまいます。
『芝笛と地図』(集英社文庫 三木卓)午前中しか鳴かないというクマゼミは、本に書いてある通りにもう静かだった。
ところで‥
クマゼミの鳴き声は、シワシワシワシワですね?アブラゼミの場合は、(乾いた)ジーーですよね?
帯には 戦後の高校生はこれほど懸命だった! などと書いてあります。 特別な感想はないのですが、ようやく分厚い本から解放されてかばんが軽くなりました。
九州と四国で梅雨明け宣言ですが、大阪も真夏の暑さがやってきました。
今年の梅雨が多くの被害をもたらしたことを除けば、梅雨時の気温の微妙な低さが好きでした。
2、3度違うだけでも活動に差が出ます。
ちなみに、近ごろのアワ・ブームはかき氷ツアーです。
ツアーといっても、いわゆる旅ではなくて、ひたすら、かき氷のお店を求めてウロウロしているだけのことです。
『あの戦争は何だったのか』(保阪正康 新潮新書)ヒロシマ「平和宣言」
10年前に、国際司法裁判所は「核兵器の使用・威嚇は一般的に国際法に違反する」「すべての国家は、すべての局面において核軍縮につながる交渉を、誠実に行い完了させる義務がある」と述べている。
ナガサキ「平和宣言」 「人間は、いったい何をしているのか」被爆から61年目を迎えた今、ここ長崎では怒りといらだちの声が渦巻いています。
『あの戦争は何だったのか』 徴兵制のしくみ 2年間の兵役→5年4ヶ月の予備役(海軍では、3年間の兵役→4年間の予備役)となっていたが、 太平洋戦争開戦後は、予備役が、陸軍では15年4ヶ月、海軍では12年に拡大されている。ひとたび戦争が始まれば動員され、戦場に送られる状態にあったわけである。 鈴木内閣の奇妙な二面策 最高戦争指導会議において、「聖戦継続、本土徹底抗戦」が固められた。15歳以上60歳までの男子、17歳以上40歳までの女子の全てに義勇兵役を課した。 「最終的にアメリカ兵が本土に上陸してきた場合は、竹槍で刺し違える」ことが改めて確認された。 大本営とは 「軍令」(通称、統帥部)のことで、「統帥権」を付与された組織であり、戦争方針を決定する部門である。
大本営陸軍部(参謀本部)、大本営海軍部(軍令部)の2つがあった。陸、海軍とも、その「作戦部」にいた20人前後の幕僚がエリート中のエリートであった。
「軍令」「軍政」の2つを合わせて「軍部」というが、「統帥権」は「統治権」より上だという考えが支配していったのである。 昭和12年に「大本営政府連絡会議」という場がつくられ、両者の意見調整がはかられた。 会議の出席者は、大本営の側からは参謀総長、軍令部総長、政府の側からは首相、陸相、外相、海相、蔵相、企画院総裁であった。 もっとも議題によって出席者はかわった。ただし、事務方は陸海軍の軍務局が握っていた。 昭和19年7月「最高戦争指導会議」と名を変えた。出席者は、首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長の6人に絞られた。 日本を開戦に導いたのは誰か 東條の秘書官であった赤松貞夫は、次のように言っている。 「あの戦争は、陸軍が始めたわけではない。海軍さんが一言、できないよといったら、始めることはできなかった。東條さんは、海軍さんはどう考えているのか、それを気にしていたんだ」 「あの戦争は、陸軍だけが悪者になっているね。しかも東條さんはその中でも悪人中の悪人という始末だ。だが、僕ら陸軍の軍人には大いに異論がある。あの戦争を始めたのは海軍さんだよ‥」 私が見るところ、海軍での一番の首謀者は、海軍省軍務局にいた石川信吾や岡敬純、あるいは軍令部作戦課にいた富岡定俊、神重徳といった辺りの軍官僚たちだと思う。太平洋戦争開戦について、最初に責任を問われるべきなのは、本当は海軍だったのである。
『あの戦争になぜ負けたのか』(半藤一利ら 文春文庫)開明派・海軍が持つ致命的欠点 @ 軍令部が連合艦隊の勝手な動きをまったく押さえられない
陸軍エリートはどこで間違えた @ 二・二六事件の影:有能な人材が中央からはじきだされてしまい、佐官クラスの野心家が戦火を拡大した。
半藤一利・保阪正康・中西輝政・戸高一成・福田和也・加藤洋子の6人が対話形式でまとめたものです。結論としては、負けるべき戦争を始めてしまったことに尽きるわけです。
「本音を言わないままで、お互い少しずつ目標値をあげていくうちに、いよいよ収拾がつかなくなる、虚構が肥大化する、そしてどうにも対応できなくなる」日本独特の問題のようです。
『翳りゆく夏』(赤井三尋 講談社文庫)戦中派の三無主義というのは、「英会話ができない、ダンスを踊れない、めしを残せない」の三つだそうです。
『がんばらない』(鎌田実 集英社文庫)諏訪に原田泰治というふしぎな画家がいる。お互いなんとなく気が合って、兄弟づきあいをするようになった。1990年の夏、アメリカにいる
泰ちゃんから電話が入った。「次さんどうかな。俺が帰るまでなんとかもたしてくれ」
二人が仲のよい友達同士ということはわかっていたけれど、それにしてもアメリカから毎日、次さんのことで電話が来るのをふしぎに思った。
「なんで次さんのこと、そんなに気になるの」と聞くと、泰ちゃんはポツリポツリと答えた。
冬、雪が降ると信州では明け方に子供たちが学校へ行くための雪かきが始まる。泰ちゃんは小児麻痺を患った後遺症で、雪かきができない。
大雪が降ったある朝、泰ちゃんの家の前だけはきれいに雪が払われていた。ふしぎに思った泰ちゃんが、夜明け前からカーテン越しに窓を覗いていると、
夜明け前のいちばん闇が深いときに次さんがやってきて、道路の雪をサクッサクッときれいに払っていった。善意の主が次さんであることを
初めて知った。次さんは雪かきがすむと足早に帰って行った。泰ちゃんと会ったときも、次さんはひと言も雪かきの話はしなかった。
泰ちゃんも次さんの思いを感じてか、知らんふりをしているらしい。何も言い出さない男同士の友情もいいものである。泰ちゃんは口には出さないが、
次さんへの感謝の気持ちを心に留めていたのだ。 原田泰治さんは、朝日新聞日曜版で有名になった、わたしの好きな画家さんである。今は、諏訪湖畔に「原田泰治美術館」が建てられ、行ったこともある。
その彼にまつわる話だが、その友人である次さんがとてもすてきな人として紹介されている。もちろん、こんなエピソードをいっぱい懐にもっている
鎌田氏(諏訪中央病院・名誉院長)の生き方に感銘である。
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