読書ノート 2003-2


リセット

大阪学

フライ、ダディ、フライ

13歳の黙示録

大阪府の歴史

対話篇

4TEEN

被差別部落の青春

鞍馬天狗

幽霊刑事

昭和史 七つの謎

高杉晋作

半パン・デイズ

ドキュメント昭和史6

約束の冬

マレー鉄道の謎

フロイスの見た戦国日本

雪が降る

生きるかなしみ

もっとどうころんでも社会科

ロシア紅茶の謎

続々 日本史こぼれ話(近世・近代)

戦中派不戦日記

ニュースキャスター

かっぽん屋

司馬遼太郎の日本史探訪

川の深さは

緒方貞子−難民支援の現場から


『リセット』(北村薫 新潮社)

十月には、わたし達の心を一時、浮き立たせてくれるできごとがありました。
台湾沖にまで迫ったアメリカ太平洋艦隊との決戦です。わが陸海軍が一体となって迎え撃ち、敵に壊滅的打撃を与えたのです。
どれほど、ラジオのニュースが、新聞が待ち遠しかったでしょう。昨日より今日、今日より明日と、信じられないほどに戦果が膨らんでくるのです。
「そうだよなあ。悪いことばかりある筈がない。負けるもあれば勝つもある。戦いには、いつか、こういう好機が訪れるものだ。後は、これを逃さぬことだ」
サイパン、大宮島、テニアンと続いた悲報に、言葉少なになっていた父が、珍しく笑みをもらしました。
今までの敗北の連続は、敵を引き寄せるためのものだった−と、新聞に出ていました。連合艦隊は、最上の時期、最良の場所を選んで待っていたのです。誰もが、この勝利に酔いました。
八千代さんは、工場まで新聞を持ち込んで、読み上げました。
「−アメリカは日本をなめて、とうとうひっかかった! やった、ついにやった。この日この時を、いかにわれらは、待ったことか!」
みな歓声を上げ、拍手しました。轟撃沈の一覧表を見ると、わずか二日で、何と二十一隻もの敵航空母艦が海底に消えたことになります。
‥‥‥
「これで、戦局も一変するわね」
「最初、《敵空母の数は十数隻に及ぶ》っていってたでしょう。ということは、全滅したということやない」
「全滅以上よ」
また拍手が起こります。
「これで、しばらく空襲の心配はないんやないの」
いつも、おどけたことをする子が《油断は禁物よ》と、しかめっ面でいい、鉢巻に手をかけ、ぐっと引いて見せました。
「勝って兜の緒を締めよ」
皆な、それだけのことで、一斉に手を打ち、笑い出しました。

十月の末には、続いてフィリピン沖海戦の戦果が報じられました。轟撃沈の空母は十九だといいます。
今回は、台湾沖の大勝利ほどには世間も騒ぎませんでした。わたしもまた、正直なところ、喜び以外のものを感じました。−叩いても叩いても立ち上がる相手を見るような疲れです。
一体、アメリカの空母は何隻あるのでしょう。
神風特別攻撃隊という言葉を初めて聞いたのは、この頃でした。落下傘も持たず、体当たりに行く。決して帰ることのない出発。
山よりも巨大な敵に、人間が立ち向かうには、最早、こうするしかないのでしょうか。

戦時下を生き抜く女学生の物語、という調子で読んでいて
彼女たちの言葉で戦争を語っていくのかなと思い、それはそれで興味を持ったのですが
2部から一転しましたね。ミステリアスに仕上がっていました。
北村氏は男性なんだろうか?(恥を忍んで、どこかで尋ねてみますとも)




『大阪学』(大谷晃一 新潮社)

以前に読んだことのある本である。

この夏に、大阪市立大学の「大阪学講座」を受講することになり、とりあえず、再読したものである。
今回は、その歴史にこだわって読んでみた。
楠木正成については、ちょっと前に読んだ本と同じ評価だった。井原西鶴が新鮮だった。

最後におまけとして、大阪風 [人間関係の秘訣7か条] を紹介しよう。グリコ事件以来、大阪はおまけが好きである。
大阪人気質をそのまま利用すれば人間関係がうまくいく。
1、人見知りせず、明るく大きな声で自分から声をかける。
2、身分や地位にこだわらず、おじけずえらばらず、同じ態度で接する。
3、自分の欠点や弱点や失敗談を平気で披露し、自らを卑下して相手の自尊心を高める。
4、格好をつけず、建前や見栄をはさまない。
5、人の話をよく聞き、喜怒哀楽を十分に表現する。迎合せずに、ときにはつっこむ。
6、何にでも「はる」というインスタント敬語を付けておく。
7、相手の考えに反対の場合は必ず「それは分かるけど」と応じ、あるいは「ちゃう、ちゃう」と軽い調子でいなす。
相手の頼みを拒否するときは「考えときまっさ」と穏やかに断る。友好の雰囲気を壊さない。

こうしてみると、意外にも、わたしの大阪人度はかなり低いような気がする。



『大阪府の歴史』(藤本篤 山川出版社)

1969年発行の古い本である。これも、江戸時代の部分だけの再読でした。

「大坂冬の陣要図」「大坂夏の陣要図」「元禄時代の大坂」「大和川つけかえ地図」の4枚の地図をしっかり見つめました。
ちなみに、江戸時代には「大坂」が正しいのです。
町人学者の中で最も興味を持ったのは、懐徳堂の山片蟠桃、蘭学の橋本宗吉でした。

それと、適塾のことが、やはり、気になりますね。



『13歳の黙示録』(宗田理 講談社)

「あとがき」より

ぼくは少年たちに言いたい。あたりまえのことだが、人を殺してはならない。それは自分も含めて多くの人を破滅させてしまうからである。それを言いたくて本書を書いた。

これまでは存在しなかった子どもの殺人が頻繁に起こりはじめた原因の一つは情報時代にある。情報は大人の独占物ではなくなった。かつて大人と子どもの世界にははっきりと分かれていたが、現代ではその境界線はなくなった。
そうなれば、子どもも大人と同じような犯罪を犯し、平気で人殺しをするのは不思議でもない。かつて大人たちが知っていた童話の中の子どもたちは、あのハーメルンの子どもたちのように、どこかへ行ってしまったのだ。
あのとき大人たちはパニックになって子どもたちを捜したが、子どもたちは帰ってこなかった。大人たちは嘆き悲しんだがその原因は大人たちにあったことに気づかなかった。
最近常識では考えられないような子どもの凶悪犯罪が起きる。そのたびに大人は慌てふためいているが、子どもが子どもでなくなったのだから、こういう犯罪はこれからも起きるはずだ。

13歳で事件を起こしたのは、ちゃんとした理由があったのだ。
続編に期待したい。




『4TEEN』(石田衣良 新潮社)

梅雨にはいる直前の一週間は、空のサーモスタットが壊れてしまったようにいきなり暑くなることがある。

焼けたフライパンのなかのポップコーンになって、ぼくたちはすこしでも涼しいところを求め、自転車でちいさな島のなかをはじけまわることになる。

こんな表現は衣良さん、特有のものでしょうか?

「スズカケノキノキの並木道」 「深緑の葉をびっしりとしげらせるソメイヨシノ」 「貧弱なケヤキの木のしたで」

都会の季節感は、むしろ他にあるのかもしれない。毎度こんなことが気にかかるのが可笑しい。
「池袋ウェストゲーットパーク」の影響に違いない。

白いポロシャツを着た小柄な男で、とても暴力を振るうようには見えなかった。
目がぎょろりとおおきく、えらが張っているから、どことなく半魚人のイメージがある。

「半魚人」のイメージって、こんなものかな? つまらぬところに注目する。

これで直木賞をとった作品というわけだ。
直木賞は大ヒットした大衆小説の分野かとも思ったが、今こそ、今どきの大人に読んで欲しい作品とも言えるかな。
一番好きだったのは「空色の自転車」だった。




『被差別部落の青春』(角岡伸彦 講談社)

「今の若いもんは、部落のことについて親からなんやかんやと言われてへん限り部落差別することはないわ。部落やからいじめてやろ、というのはないんとちゃうか。でも、今の若いもんは自分の考えがないからな。自分の意志をもってなくて、周りが言うてるからその考えに従うてんのとちゃうか」
今の若いもんは‥‥と嘆く十七歳も珍しいが、本人が差別意識をもっているかいないかにかかわらず、周囲に合わせる格好で差別するという指摘は的を射ている。当の川原は「わいは周りに惑わされることはないもん」と言い切る。短いながらも一緒に働き、話を聞いていると、彼だったら確かにそうやろな、と思えた。

参加型体験学習の隆盛は、これまでの同和教育がいかに生徒を授業に参加させていなかったかを物語っているといえよう。同和教育のマンネリ化、形骸化が指摘されて久しいが、井上の試みは、授業の進め方によっては自分自身や身の回りを見直すきっかけになりうることを示している。逆に言えば、伝えるべき内容と工夫がない同和教育は、あまり効果を生まない、ということである。

約二十年の教師生活を経た山本は、生徒や部落出身の妻と対話しながら、ようやく自分なりの同和教育をイメージできるようになったという。
「僕は部落差別がなくなるんは、もうちょっとの努力なんやと言うていく方がええんやないかと思てるんです。授業ではとにかくそのへんを言うんです。以前に比べて差別はかなりなくなっている。だからお前らの時代に絶対なくなるんや、なくさなあかんのや。そんな話をすることにしているんですよ」

しなやかな視線で「差別と被差別の現在」に迫るルポ、と書いてありました。
21世紀に入った今だから、こんな本を読みたかったと思っています。「おもろい奴も、笑える話もあるで」というのがいいでしょ。




『昭和史 七つの謎』(保阪正康 講談社)

第2話:真珠湾攻撃で、なぜ上陸作戦を行なわなかったのか?

その余裕がなかった、ということですね。

第4話:《東日本社会主義人民共和国》は誕生しえたのか?

スターリンの野望をトルーマンが未然に防いだ、ということは知っていました。

第5話:なぜ陸軍の軍人だけが、東京裁判で絞首刑になったのか?

隣室の控え室からは、ともかくも絞首刑を免れた被告たちの笑い声が聞こえてくる。武藤は、この日の日記のなかに、とくべつに感想も記述せずに
「隣室の方から笑い声がきこえる。嶋田さんの嬉しそうな高笑が耳につく」という一節も書いている。

開戦時の陸軍省軍務局長・武藤章は死刑判決を受け、開戦時の海軍大臣で昭和十九年には軍令部総長でもあった嶋田繁太郎は死刑を免れたのである。

A級戦犯とは「平和に関する罪」(侵略戦争の共同謀議に加わった罪)に問われた者で、28人。うち、25人が刑の宣告を受けた。
 東条英機(陸軍大将・陸相・内相・首相・参謀総長)
 土肥原賢二(陸軍大将・在満特務機関長・陸軍航空総監)
 板垣征四郎(陸軍大将・中国派遣軍総参謀長・陸相)
 木村兵太郎(陸軍大将・陸軍次官・ビルマ派遣軍司令官)
 松井石根(陸軍大将・上海派遣軍司令官)
 広田弘毅(駐ソ大使・外相・首相)
 武藤章(陸軍中将・陸軍省軍務局長)
 の七人が死刑判決を宣告された。

  1. 天皇の責任を問わないと決まった瞬間に、大本営の責任は問わないという論理が導き出された。
  2. ドイツ、イタリアとの三国同盟の締結については、外務省も海軍省も消極的だったことが、東京裁判の法廷では幸いだったのである。
  3. 東京裁判で裁かれなかった軍令にかかわった軍人たち、そして、政治家、財界人などをどのように扱うか、それは日本人の手にゆだねられた。しかし、日本は自身でそれを問うことはしなかった。

東京裁判が温情的であったのは確かなようですが、軍国主義者の追放までアメリカにゆだねたところに日本自身による戦後処理の甘さがあったように思われる。筆者の指摘もそこにあるようです。



『ドキュメント昭和史6』(相良竜介編 平凡社)

氏 名   共同謀議中国ノモンハン残虐行為防止の怠慢
東条英機 
GGGG 
土肥原賢二
GGG
板垣征四郎
木村兵太郎
    
松井石根 
 
広田弘毅 
  
武藤 章 
 

中国からノモンハンまでは、それぞれの侵略戦争の実行。
Gは有罪、Xは無罪、○は判定せず。



『幽霊刑事』(有栖川有栖 講談社)

「もうひと言、何か言って」
須磨子の頬を涙が伝う。
何を言えばいい? 俺との思い出に一生すがって生きてくれ、と押しつけることはできない。いい男を早く見つけろよ、と心にもないことも言えない。天国でまた会おうと約束しようにも、そんなもの、あるかないかも知らない。
俺は深呼吸してから、耳を澄ませる彼女に告げた。
「忘れないでいてくれ」

幽霊がことを成し遂げたあと消えていくときの辞世の句ですが、そうだよね、と思えます。

本文515ページ以降の空白は著者の意図によるものであり、
作品の一部です。(編集部)

確かに説明が要りましたね。

有栖川有栖氏の作品を読むのは初めてです。
有栖川有栖というのはもちろんペンネームでしょうが、大和川大和とか淀川淀よりは気品がありますね‥。




『フロイスの見た戦国日本』(川崎桃太 中央公論新社)

信長は尾張の国の三分の二の主君なる殿(信秀)の第二子であった。 彼は天下を統治し始めたときには三十七歳くらいであったろう。 彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、髯は少なくはなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。 彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。幾つかのことでは人情味と慈愛を示した。

彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。 貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術にきわめて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。 彼はわずかしか酒を飲まず、食を節し、人の取り扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。 彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。 そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。

彼は戦運が己れに背いても心気広闊、忍耐強かった。 彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。 形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大にすべての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。

彼は自宅においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賤の家来とも親しく話をした。 彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることをはなはだ好んだ。 何びとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。 彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たってははなはだ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。

信長に対する興味と評価が高いようですね。それに対して、秀吉に関してはひどいものでした。



『半パン・デイズ』(重松清 講談社)

美奈子は傘を少しあみだにして、言った。
「ちーさな親切、おーきなお世話!」
あっかんべぇの顔だった。

おじさんは窓を閉めながら、歌うように言った。
「ちーさなエンリョ、おーきなザンコク」
ぼくは窓の外を見たまま動かない。

左手首を捻挫しても、右手さえあれば本は読めるということを証明したものです。
もちろん、右手だけでキーボードを打つのは面倒なことです。




『マレー鉄道の謎』(有栖川有栖 講談社)

「ともかく嫌なんです、人から嫌われるのは」
友人は精神的に弱っている。それを承知しながら、私は彼に腹を立てた。

「三十四にもなって、思春期の少年少女みたいなことを言うなよ。人から嫌われるのが怖くて生きていけるか。人間っていうのは、周りの全員から愛されるなんてことは絶対にない、三人に好かれたら十人に嫌われるぐらいに思っておくのが無難なんやぞ。誰にも嫌われていない奴がおるとしたら、そいつを好きな奴はきっとゼロや。判ってんのか」

’03年、本作で第56回日本推理作家協会賞受賞。



『もっとどうころんでも社会科』(清水義範 講談社)

GNPは国民総生産で、一国において一年間に生産されたものの総計。GDPは国内総生産で、GNPから海外で得た純所得を差し引いたもの。こっちの方が国内の経済水準を測る指標としてふさわしいのだそうである。

日本語で、ごまかす、ということばがあるのは、何にでもゴマを加えれば味がうまくなるところから、胡麻化す、が語源だそうである。

なるべく歩くようにしよう。そして、大いに旅行をするように心がけよう。旅行という移動は、その土地の人と戦うというわけではなくて、とりあえず歓迎されているわけだから。あれはいちばん平和的な人間の移動である。

流行の「トリビアの泉」でもないですが、
ちょっとしたお話が左の耳から入って、右の耳から抜けていくようなものでした。




『生きるかなしみ』(山田太一編 筑摩書房)

断念するということ(山田太一)

大切なのは可能性に次々と挑戦することではなく、心の持ちようなのではあるまいか? 可能性があってもあるところで断念して心の平安を手にすることなのではないだろうか?
私たちは少し、この世界にも他人にも自分にも期待しすぎていないだろうか? 
本当は人間の出来ることなどたかが知れているのであり、衆知を集めてもたいしたことはなく、ましてや一個人の出来ることなど、なにほどのことがあるだろう。相当のことをなし遂げたつもりでも、そのはかなさに気づくのに、それほどの年月は要さない。
そのように人間はかなしい存在なのであり、せめてそのことを忘れずにいたいと思う。

最後の修業(佐藤愛子)

どんなに頑張っても人はやがて老いて枯れるのである。それが行きとし生けるものの自然である。それが太古よりの自然であるとすれば、その自然に自分を委ねるのが一番よい。私はそう考えている。
これからの老人は老いの孤独に耐え、肉体の衰えや病の苦痛に耐え、死にたくてもなかなか死なせてくれない現代医学にも耐え、人に迷惑をかけていることの情けなさ、申しわけなさにも耐え、そのすべてを恨まず悲しまず受け入れる心構えを作っておかなければならないのである。どういう事態になろうとも悪あがきせずに死を迎えることが出来るように、これからが人生最後の修業の時である。いかに上手に枯れて、ありのままに運命を受け入れるのか。楽しい老後など追及している暇は私にはない。

朝日新聞「天声人語」で紹介されたから、ということで読んでみました。
たぶん話が高尚過ぎて読みづらかったですが、佐藤愛子さんのものだけは別でした。




『ロシア紅茶の謎』(有栖川有栖 講談社)

解説(近藤史恵)より

「屋根裏の散歩者」の、人を食ったような暗号も大好きです。

実を言うと、この暗号だけはわかりました。人間ドックの2日間で読破したのです。



『続々 日本史こぼれ話(近世・近代)』(笠原一男・児玉幸多編 山川出版社)

暦には大別して太陰暦・太陽暦・太陰太陽暦がある。

太陰暦は太陽の運行を考えず、月の満ち欠けのみに基づいた暦法である。月の満ち欠けの周期を1ヵ月とし、12ヵ月で1年とするが、満ち欠けの周期は平均して約29.5日なので、これが12回だと354日にしかならない。年とともにこのずれは激しくなる。

太陽暦は太陽の運行だけを考える暦法で、現在私たちが用いている。これによると季節のずれは生じないが、月の満ち欠けとの関わりがなくなる。

この2つの暦を取り込み、1暦月は月の満ち欠けで、1暦年は太陽の運行で定めるのが太陰太陽暦で、略して陰暦とか旧暦とかいう。近代以前の日本の暦法はすべて陰暦であった。1ヵ月はすべて29日あるいは30日で、1年について生じる11日の不足は一定の法則に基づいて、ときどき閏月を設けて調整するのである。

1972年12月2日の次の日を1973年1月1日として、改暦が行なわれた。
その理由は欧米に習った近代化の推進ということだが
真相としては改暦によって官吏の給与を2か月分節約することにもあったらしい。
大蔵卿である大隈重信の妙案ということでまとめてあった。




『ニュースキャスター』(筑紫哲也 集英社新書)

朱鎔基首相(中国)の「市民対話」のとき

「なぜ中国はひとりっ子政策なのか。子どもたちはさびしくないか」で早くも自分のペースを作り始めた。

「私の13歳の孫もさびしがっている。だが、そうしないと世界中が中国人だらけになってしまう」

「京劇が好きでない人には、豚がしめ殺されているように聞こえるかもしれませんが、みっともないところをお見せしましょう」
そう言って、首相は演奏した。会場はみな大喜び、大拍手だったが、ご本人は番組収録後も、北京に戻ってからも、もっとうまく弾けなかったかと悔やんでいたという。

本番は見ていないのですが、筑紫さんがでいちばん会ってみたい世界の要人でした。



『司馬遼太郎の日本史探訪』(司馬遼太郎 角川文庫)

今の北海道で、いちばんよい町だといわれている、そして北海道開拓百年という伊達町(今の伊達市)というのがありますね、伊達政宗のダテ、この伊達町の例など、いいですね。

ご存じのように仙台の伊達家というのは、戊辰戦争の時には賊軍になっていましたから、薩長というか維新政府はひどいめにあわせていますよ。その伊達の小さい支藩の中で、亘理という藩があって、それは2万5千石か4千石の小さい藩ですけれどね、明治政府が、ほとんど取り上げちゃうんです。殿様には58石しかあげず、侍はちょうど千4、5百軒あるんですけれど、その侍が全部無禄になってしまった。路頭に迷うことになるんです。この時、家老に田村彰允という人がいて、これはたいへん偉い人で、北海道に行きましょうと言うんです。北海道に行って北門の警備という武士の面目を保ちながら、原野を開きましょうと、みんなを励ますんです。それで、殿様以下必死になって運動して、北海道へ全部移ってしまったんです。

すでに読んだことがありそうだが、つい買って、読んでしまった。
気になったのは「北海道開拓に夢を託した人々 新世界“蝦夷地開拓史”」だった。
「織田信長」「関が原」「緒方洪庵」も、とりあえず復習しておいた。




『緒方貞子−難民支援の現場から』(東野真 集英社新書)

そんなに平和ないい世界に住んでいるんじゃないですよ‥‥20世紀が終わってもね。

日本がいま平和であるということと、平和であり続けることとは違うことだとわたしは思うんですね。

日本人は、日本が単一民族の島国であるという錯覚のもとに暮らしてきましたが、これはあくまで錯覚であり、人・モノ・情報などが広く行き交うグローバル化した今日の世界においてはとうてい維持し続けられないでしょう。私たちは島国根性や外国人に対する偏見や差別を打ち捨て、外の問題を自分たちの問題としてとらえる必要があります。

歴史の非常に微妙な転換点にあるいま、日本がこの道を踏襲していくことは必要不可欠であると私は思います。国際社会への貢献はさらに強調されるべきですし、「国際主義」は日本の外交政策の最優先目標の一つであるべきです。手遅れにならないうちに、日本はその内向的・国家主義的傾向、船橋洋一氏が言うところの「不況外交政策」をやめるべきです。現在の経済の停滞が続く限り、このような傾向に陥りがちかもしれませんが、日本の国民は自分たちの経済のみならず、日本の政治的・安全保障上の利害もすべてグローバルなところにその基礎があることを忘れてはならないのです。日本はこの何十年、日本にとっては好都合でオープンな国際環境から恩恵をこうむってきました。今、この国際主義的な姿勢を支持し続けなくてはなりません。政策指針はグローバルなスタンスを再確認し、国民のコンセンサスを得るべく積極的に訴えかけなくてはなりません。

1927年東京生まれ。曽祖父が犬養毅首相。
10年にわたる国連難民高等弁務官としての貢献で知られ、アフガニスタン支援日本政府代表を務めるなど、今も精力的に活動している。




『戦中派不戦日記』(山田風太郎 講談社)

−私の見た「昭和二十年」の記録である。

いうまでもなく日本歴史上、これほど−物理的にも−日本人の多量の血と涙が流された一年間はなかったであろう。そして敗北につづく凄まじい百八十度転回−すなわち、これほど恐るべきドラマチックな一年間はなかったであろう。

ただ私はそのドラマの中の通行人であった。当時私は満二十三歳の医学生であって、最も「死にどき」の年代にありながら戦争にさえ参加しなかった。「戦中派不戦日記」と題したのはそのためだ。ただし「戦中派」といっても。むろん私ひとりのことである。

東京大空襲から始まり、硫黄島の玉砕・沖縄戦の開始・ルーズベルトの急死・ベルリンの陥落といったニュースがラジオを通じてほぼ正確に入ってきていたようだ。
それに比べて、大本営発表がとても間抜けに聞こえた。
建築破壊作業、教練、警報発令、大学の疎開のなかでも‥毎日のように、本を読んでいたわけだ。




『かっぽん屋』(重松清 角川文庫)

全8編の短編集。

「大里さんの本音」(『世にも奇妙な物語8』)がよかったかな。



『川の深さは』(福井晴敏 講談社)

あなたの目の前に川が流れています。深さはどれくらいあるでしょう? 
「1、足首まで 2、膝まで 3、腰まで 4、肩まで」。

女性向け雑誌の中にあった心理テストを、葵が保と桃山に試すシーンがある。実は、これは情熱度を表していて

1、足首までって答えた人は、「あんまり情熱のない人」。
2、膝までは、「あるにはあるけれどいつも理性の方が先に立つ人」。
3、腰までは、「なんにでも精力的で一生懸命、いちばんバランスが取れている人」なのである。
 そして、
4、肩まではといえば「情熱過多。暴走注意」。

二人がどう答えたかは、言わずもがなというものでしょう。

解説(豊崎由美)のなかから探しました。



『フライ、ダディ、フライ』(金城一紀 講談社)

「どんな人間だって、闘う時は孤独なんだ。だから、孤独であることさえ想像するんだ。それに、不安や悩みを抱えてない人間は、努力してない人間だよ。本当に強くなりたかったら、孤独や不安や悩みをねじ伏せる方法を想像して、学んでいくんだ。自分でな。『高いところへは他人によって運ばれてはならない。ひとの背中や頭に乗ってはならない』」

「‥‥‥ヨーダ?」

「ニーチェだよ」

鈴木一、47歳。平凡なサラリーマン。破綻した世界を取り戻すための、ひと夏の冒険譚。

(というように、帯には書いてあります)



『対話篇』(金城一紀 講談社)

いま、僕はもう三十を越え、不良だった頃の名残は右の前歯が差し歯ということと、相変わらず英語の筆記体の読み書きができないことぐらいしかない。

特に、後半のコダワリの不器用さがいいですね。

いまから僕が話そうと思っているのは、そんな僕についての話ではなく、大学時代に知り合った、ある友人についての話だ。
彼のことを思い出すたびに、僕は十四歳の頃を、初めて真剣に好きになった彼女のことを、思い出してしまうのだ。

三篇中の「恋愛小説」の初めの部分である。
「花」は金城一紀らしくなく、まるで浅田次郎氏の『天国までの百マイル』ばりの優しい作品だった。




『鞍馬天狗』(川西政明 岩波新書)

ペリーの来航からすべては始まった

 1、日米和親条約(函館と下田の2港を開く) 1853年
 2、日米修好通商条約(通商=貿易の開始) 1858年

とまどう江戸幕府

 1、水戸藩(幕府改革派)から出た尊王攘夷論
 2、大老、井伊直弼(幕府保守派、やむを得ず開国をする)による弾圧

 安政の大獄
 桜田門外の変

尊皇攘夷論の勝利、舞台は京都へ‥天皇が攘夷の実行をせまる

 1、穏健派の薩摩藩(朝廷が幕府の政治を動かす)
 2、過激派の長州藩(幕府をおいつめる)が京都から追放される

 下関戦争と薩英戦争
 薩長同盟と長州征伐

尊王倒幕論への転換

 1、穏健派の土佐藩‥大政奉還(過激なことは好まない)
 2、過激派の薩摩・長州藩‥倒幕の密勅(新しい政権樹立のためには旧勢力は全滅させなければならない)

とりあえず、まとめてみた。これにて、夏の読書は一段落である。



『高杉晋作』(池宮彰一郎 講談社文庫)

おもしろき こともなき世を おもしろく

すみなすものは 心なりけり

晋作と望東尼の合作ということになっている。筆者によれば、「歌とすれば、道歌めいて優れた歌とは言い難い」らしい。

高杉晋作なくして、明治維新は有り得なかった。
維新後に、栄爵を得た人々は、深夜目覚める時、内心、忸怩(じくじ)たる思いに駆られたに違いない。

慈愛に満ちた恩師、吉田松陰
 ↓
「尊王攘夷」の志半ばで倒れた者は 久坂玄瑞 周布政之助
 ↓
「勤王開国」に転回させたのは高杉晋作
 ↓
余慶を手にした者は 桂小五郎(木戸孝允) 伊藤俊輔(博文) 山県狂介(有朋) 井上聞多(馨)

こんな風に、まとめてみました。



『約束の冬』(宮本輝 文芸春秋)

本を読んでいて、いつの間にか、午前6時になってしまいました。
窓の外が明るいのに気づいて、慌てて寝ましたが、どうしようもなく寝不足です。

−空を飛ぶ蜘蛛を見たことがありますか。ぼくは見ました。蜘蛛が空を飛んでいくのです。十年後の誕生日にぼくは26歳になります。12月5日です。 その日の朝、地図に示したところでお待ちしています。お天気が良ければ、ここでたくさんの小さな蜘蛛が飛び立つのが見られるはずです。 ぼくはそのとき、あなたに結婚を申し込むつもりです。こんな変な手がみを読んで下さってありがとうございました。須藤俊国−

ちなみに、宮本輝氏の『約束の冬』上下を読み終えました。
空を飛ぶ蜘蛛、というのが不思議でした。
久しぶりにいい文章を読んで、得をした気がします。




『雪が降る』(藤原伊織 講談社文庫)

「あたしはね、人魚なのよ」彼女はそう言った。

ぼくはそれまで人魚に知り合いはいなかった。会ったこともない。だから、彼女の言い分が正しいのか、そうでないのか、判断がつきかねた。だが、もしそうだとしたら、かなり特殊な経験のさなかにいるということになる。そもそも日曜の夕暮れ、銀座の雑踏で人魚に声をかけられた男がなん人いるだろう。

6つの短篇中の「トマト」である。こんな書き出しって、凄いですね。



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