読書ノート 2002-2

道東を読む


井上靖「おろしあ国酔夢譚」(文春文庫)

1792年(寛政四年)、十月八日にアダムス(=ラクスマン)は通訳トゥゴロフと舵手オレソフを同乗させて、再び上陸、今度は西別という他の部落に赴いてみた。 そこでは多くの土民が出迎えてくれ、その中に六人の日本人が居るのを見た。 日本人の一人は幕府へ献上する鮭をとるために松前藩より派せられている役人、一人は松前の商人の手代で、藩より貸下げられた若干の埠頭を国後、色丹両島とこの辺境地方に持っていて、土民との交易を業としている人物、他の四人は松前の役人に仕えている下役であった。

翌九日、(光太夫、小市、磯吉等三人の日本漂民を乗せた)エカチェリーナ号は土民の曳船に曳かれて根室湾に入り、無事に湾内に投錨した。 根室湾と言っても別に陸地が深く湾曲しているわけではなく、多少屈曲の多い海岸線からほど遠くないところに弁天島という小島があり、それが自然の防波堤の役をして船泊まりを作っているだけのことであった。 エカチェリーナ号はその弁天島の島陰に錨を降ろした。そこから見る根室の海岸は丈低い潅木と青い草に覆われた低い丘がちらばっている荒涼たる地帯で、浜は狭く、その狭い浜に埠頭とは名ばかりの船着場があり、その辺りに日本人の住居、倉庫、納屋などが三、四軒ちらばっていた。 そしてそこからかなり離れた海岸に二、三十戸の土民の家があるのが見られた。


司馬遼太郎「街道を行く15」(朝日文庫)

1799年(寛政十一年)、幕府は択捉島の航海路を確立すべくそのための御用船頭を物色していたが、結局、嘉兵衛を選んだ。
この渡海のとき、嘉兵衛は択捉島を検分して会所を建てる場所、船がかりをする入江、漁場を定めた。


松本清張・保柳睦美「伊能忠敬」(角川文庫「日本史探訪18」)

1800年(寛政十四年)、伊能忠敬は、蝦夷(北海道)の地へ最初の測量に出発した。
この年、五十六歳を数えていたにもかかわらず、彼は三人の若い弟子と二人の従者を引き連れ、奥州街道を北へ直行してから、蝦夷地へ渡り、その南東部を海岸線の沿って歩いて、根室海峡に面するニシベツまで行っている。


司馬遼太郎「ロシアについて」(文芸春秋)

1699伝兵衛、カムチャツカに漂流。のち、モスクワに連れてゆかれ、ピョートル大帝にも拝謁する。
1701コザックの五十人隊長アトゥラソフ、カムチャツカの征服が成功した旨をモスクワに報告。
1705伝兵衛、ピョートルの命令でイルクーツクに最初の日本語学校をひらく。
1713ヤクーツク政庁の命令を受け、カムチャツカの首長コズィリョフスキーを千島の探検に出発させる。第三島(二十二島目が北海道)まで進む。
1767コザックの百人隊長チェルヌイ、択捉島にやってくる。
1770ヤクーツクの毛皮業者プロトジャコーフがウルップ島にやってきて、土地のアイヌをつかってラッコを獲った。アイヌたちはこの奴隷労働をきらい、ついにその翌1771年、反乱をおこし、ロシア人二十一人を殺す。
1781工藤平助「赤蝦夷風説考」を著す。
1775ヤクーツクの商人レベデフ・ラストチキンがラッコ捕獲団をウルップ島に送る。4年後、この島に大地震と津波とがあり、乗船が島にのっかってしまったりして去り、その後、島は空っぽになる。
1795イルクーツクに本店をもつ大手毛皮商人シェリコフが捕獲隊(植民団)をウルップ島に送る。

工藤平助「赤蝦夷風説考」:赤蝦夷の本国はヲロシアなり。リュス国といふ国も同じことなり。城下はムスコビヤという故、おしなべてムスコビヤともいふ。 カムサスカといふは、赤蝦夷の本名なり。カムシカトカといふも同断なり。

日露和親条約第二条:今より後、日本国と魯西亜国との境、エトロフ(択捉)島とウルップとの間にあるべし。 エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島、夫より北の方クリル諸島(千島列島)は魯西亜に属す。 カラフト島に至りては、日本国と魯西亜国の間において界を分たず、是迄の仕来の通りたるべし(日本側の文書による)。


賀川隆行「崩れゆく鎖国」(集英社版「日本の歴史14」)

1739海軍士官ベーリングの補佐官スパンベルグ、千島列島を測量、調査しながら南下して、日本の太平洋沿岸にまで至り、仙台藩領の田代浜や安房国天津村では村民に歓迎された。そのときに、千島の二十二島にロシア名をつける。
1778ロシアの商人シャリバンが霧多布場所のノッカマプに来航し、松前藩士に通商を求める。翌年、鎖国制度をもとに通商を断るが、幕府には報告せず。
1785蝦夷地探検隊の下役最上徳内、クナシリ島に渡る。
1786最上徳内、エトロフ島、ウルップ島に渡る。同下役大石逸平らはカラフトに渡って地形を調査し、北カラフトについての情報を収集する。
1791林子平「海国兵談」:江戸日本橋より唐、阿蘭陀まで境なし
1792ラクスマン、根室に来る。翌年海路箱館に向かい、陸路松前に向かう。幕府側は交易を拒否する。
1794桂川甫周「北さ聞略」(大黒屋光太夫の漂流記をまとめたもの)を幕府に上亭する。
1796イギリス人ブロウトンが指揮するプロビデンス号が内浦湾に停泊する。翌年にまたエトモに来航し、松前沖にあらわれる。
1798東蝦夷調査隊の近藤重蔵、最上徳内とともにクナシリ島、エトロフ島に渡る。
1802東蝦夷地が永久上知され、正式に幕府直轄領となる。
1804アダムスが持ち帰った信牌(長崎入港の許可証)を元に、遣日使節レザノフ、長崎で幕府に開国を要求するが、はねつけられる。これを侮辱と感じ、私的に、フォストフ大尉に「日本にロシアの武威を見せてやれ」と命じた。
1807フォストフ大尉(武装商船ユノ号)、択捉島に上陸し、島内ナイボの会所、運上屋、板蔵をおそい、物品をうばった上、造営物を焼き払う。会所の張役や番人など四人をとらえて去る。六日後にふたたび同島にあらわれ、シャナの南部藩警備所を襲撃する。1806年と1807年に、樺太でも、アイヌの部落、日本の運上屋、番所をおそっている。ただし、ロシア政府もフォストフには手を焼いていたらしく、カムチャツカ帰港後に彼を逮捕している。
1807幕府は全蝦夷地を直轄することになり、松前奉行が福山に置かれることになった。
1808間宮林蔵、樺太に向かう。翌年には、単身で対岸の黒龍江河口に渡り、黒龍江をさかのぼってデレンに至り、清朝の役人と会う。。
1810高田屋嘉兵衛が択捉場所の請負を命じられる。
1811ゴローニン少佐(ロシア軍艦ディアナ号の艦長)、薪水の供給をたのむために択捉島に上陸して、日本の警備兵にとらえられる。やがて、松前に護送され、入獄の身となる。
1812嘉兵衛の観世丸がロシア軍艦ディアナ号(副艦長リコールドが指揮)に拿捕され、嘉兵衛以下5人がカムチャツカに拉致される。この後のことは、司馬遼太郎「菜の花の沖」が詳しいでしょう。
1813嘉兵衛の説諭により、リコールドは先年の暴行事件を謝罪することに同意し、嘉兵衛を国後島に上陸させてゴローニン釈放のための交渉を開始した。 松前奉行とのあいだで謝罪文を提出すれば捕虜を釈放するという手筈がととのえられ、9月にリコールドはディアナ号で箱館に入港し、イルクーツク民政長官の謝罪文を渡し、松前奉行もゴローニンを釈放して事件は落着した。



「昭和史ハンドブック」(平凡社版「ドキュメント昭和史 別巻」)

カイロ宣言 1943,12,1
 三大同盟国(米・中・英)は、日本国の侵略を制止し、かつこれを罰するため、今次の戦争をなしつつあるものなり。右同盟国は、自国のためになんらの利益を欲求するものにあらず、また領土拡張のなんらの念をも有するものにあらず。
 右同盟国の目的は、日本国より1914年の第一次世界戦争の開始以後において日本国が奪取したる太平洋における一切の島嶼を剥奪すること、並びに満州、台湾および澎湖諸島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還することにあり。
 日本国はまた、暴力および貪欲により日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐されるべし。

ヤルタ協定 1945,2,11
 三大国すなわちソヴィエト連邦、アメリカ合衆国および英国の指揮者は、ドイツ国が降伏し、かつヨーロッパにおける戦争が終結したる後二月または三月を経て、ソヴィエト連邦が左の条件により連合国に与して日本に対する戦争に参加すべきことを協定せり。
 二、1904年の日本国の背信的攻撃により侵害されたるロシア帝国の旧権利は、左の如く回復せられるべし。
 イ、樺太の南部およびこれに隣接する一切の島嶼は、ソヴィエト連邦に返還せらるべし。
 ロ、大連商港におけるソヴィエト連邦の優先的利益はこれを擁護し、該港は国際化せらるべく、またソヴィエト連邦の海軍基地としての旅順口の租借権は、回復せらるべし。
 ハ、東清鉄道および大連に出口を供与する南満州鉄道は、中ソ合弁会社の設立により共同に運営せらるべし。但しソヴィエト連邦の優先的権利は保障せられ、また中華民国は満州における完全なる主権を保有するものとする。
 三、千島列島は、ソヴィエト連邦に引渡さるべし。

ポツダム宣言 1945,7,26
 八、カイロ宣言の条項は履行せらるべく、また日本の主権は本州、北海道、九州および四国並びに吾らの決定する諸小島に局限せらるべし。

サンフランシスコ平和条約 1951,9,8
 第二条(c)日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部およびこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原および請求権を放棄する。

日ソ共同宣言 1956,10,19
 9、日本国およびソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。
 ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島および色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間に平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。


NHK取材班「その時歴史が動いた12」

原爆投下・トルーマンの決断‥「ソ連抜き」という決断(仲晃桜美林大学名誉教授)

 本国から原爆が成功したという報告が届き、それが強力な新兵器になるという確証が得られたわけですね。そこでトルーマンは最初の予定を変え、次第にソ連をポツダム宣言からはずす方向へ動いていくわけです。その最大の理由は、ポツダム会談のそれまでの何日かの議論で、ソ連が社会主義の祖国としての自分の国を守るために、国境の外に衛星国をつくってソ連の勢力を認めさせようという、いわゆる力の外交を非常に強く主張したからです。
 トルーマンはスターリンがあまりにも自分の国の利益を強く主張するので、このままにしておけば、戦争が終わったあとソ連はアジアでも同じ要求をしてくるかもしれない、日本の占領や当地に加えろと言ってきたら困ると。そのためには、ソ連をポツダム宣言からはずそうというふうに考えます。
 ちょうどその時に原爆が間に合った。この原爆を今すぐ使って、日本をソ連ではなく、アメリカ陣営、つまり自由陣営に降伏させようと考えていったわけです。
 このため、天皇制維持という日本の条件を呑んで日本の降伏を早めようという柔軟な考えも、後退してしまったのですね。
 原爆は、もう8月の1日から10日までのあいだには日本に投下できる態勢にありました。ソ連が8月中旬を目標に進めている満州進撃より先にできる。そうすれば、日本はソ連の参戦よりも前に降伏するのではないかということが、トルーマンの心をよぎったと思うのです。
 原爆の存在を知ったソ連は必死になって、対日参戦を早めようとする。アメリカはソ連を排除して、西側だけで、原爆の力で日本の降伏を早めようとする。
 二つの国の間の、激しいタイムレースがはじまったということですね。

ソ連対日参戦・スターリンの焦燥‥歴史はどう動いたか(長谷川毅カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)

 ポツダム宣言から敗戦まで、20日間という非常に長い時間がかかっているわけですね。その間に、いったいどれほどの人が死んで、どれほどの人が悲劇を経験したかということを考えると、やはりこれは犯罪的な遅れであったと私は思います。
 日本人はややもすると、敗戦というとすぐに原爆やソ連参戦を思い浮かべて、われわれは被害者だったと考えがちですけれど、「原爆もソ連参戦もなく敗戦をすることが可能であった」ということを考える必要があると思うのですね。
 その選択肢を選ばなかった日本の支配層の責任というものも考えなければならない。戦後の諸々の問題が、そこのところの責任を有耶無耶にしてきたことから生じているようなことが多いのではないかと私は思っております。


森武麿「アジア・太平洋戦争」(集英社版「日本の歴史20」)

 在満日本人は155万人のうち死亡者17万6000人、うち開拓団民では27万人のうち7万8500人が死亡した。
 ソ連軍の捕虜となった満州・北朝鮮・サハリン・千島の軍人・軍属は、9月ごろから翌年秋にかけてシベリアをはじめとする各地の収容所に送られ、伐採・建築・炭鉱などの重労働を強制された。ソ連側資料によると日本軍捕虜は63万9635人で、そのうちシベリア抑留者は54万6086人、死者は6万2068人という。


神田文人「占領と民主主義」(小学館「昭和の歴史8」)

 樺太では、8月11日朝、北緯50度を南下したソ連軍との間に戦闘がはじまり、16日、西海岸の恵須取、20日、南部の真岡に上陸したソ連軍との間で、戦闘がはじまり、終わったのは22〜23日で、28日に武装解除を終了した。千島列島最北端、占守島には、8月18日、ソ連軍が上陸、日本軍守備隊は激しく抗戦したが、翌19日、戦闘を停止した。
 樺太・千島列島の場合は、日ソ両軍ともに、命令の伝達が不十分であったため、停戦が遅れ、多数の死傷者を出すにいたった。武装解除された日本軍は、作業大隊に編成されてソ連領内に送られ、一般居留民は、占領下、ソ連軍による金品略奪・暴行の被害をうけた。居留民の日本への送還は47年11月であった。


「データパル2002」(小学館)

東京宣言
1993年10月、エリツィン・ロシア大統領が来日、北方領土問題を「両国間で合意作成された諸文書および法と正義の原則を基礎として解決する」と発表した。

国境線画定案
1998年4月、橋本首相が「当面、北方領土について国境線を両国で画定することによって、日本に主権があることだけを確認し、現実の行政などの施政権は、当分の間ロシア側に認めてもよい」とする妥協案を提案したが、プーチン大統領はこれを拒否した。
2000年9月、森喜朗首相はこの案を再度説明したが、プーチン大統領は受け入れられないと表明した。

イルクーツク声明
2001年3月、プーチン大統領は、森首相との会談後の声明で「平和条約締結後に歯舞諸島と色丹島の二島を日本に引き渡す」と定めた日ソ共同宣言の有効性を認める。

交渉継続を確認
2001年7月、小泉首相はプーチン大統領とジェノバで会談したおり、「四島の帰属を解決し、平和条約を締結する」という日本政府の方針を説明、両首脳は交渉継続を確認した。

北方四島周辺サンマ漁
2001年8月より韓国漁船が(1999年にロシアとの2年間の協定を結んだ)北方領土周辺でのサンマ漁を始めた。 日本政府は、北方領土は日本の固有の領土であり、その周辺水域での操業は日本の許可なしには認められないとして韓国に自粛を求めたが、日韓両国政府による局長級協議が合意にいたらず、事実上決裂した。

 *2002年の話題は、国後島の宿泊施設「友好の家」(通称・ムネオハウス)でしたね。元々胡散臭いわけですが、約4億円で契約したのにプレハブまがいの安普請との指摘があります。


「根釧台地の酪農」(古今書院「授業のための日本地理」)

 根釧台地は、高さ30mから80m、幅50km以上にわたってゆったりとうねりながら広がっている。台地のところどころに背の低いシラカバ・ナラ・カラマツなどの林がこんもり茂っている。こんなに木の成長が悪いのは、海霧のせいだという。根室から釧路までの沿岸地帯では、とくにひどく5月から10月の農作期間184日間のうち、日照時間は146時間にすぎず、平均気温も13,6度で農作物の育ちは悪く、実のなるものは成熟しない。

 根釧原野の開拓は明治の末ごろから始まりましたが、馬の放牧が中心だったようです。夏の低温と霧で、冬に食べさせる干草がつくれなかったからでした。
 計画的な開拓は、1933年に混戦植民地農業開発5カ年計画がたてられてからでした。この計画はテンサイと牧草をつくって牛や馬を飼い、テンサイは砂糖工場に売るというものでした。しかし、火山灰地であり、人力や畜力での開墾はすすまず、牛2頭、馬1頭でわずかの収入しかなく、開拓農民の半分以上がほかへ移っていきました。
 1995年になると機械化による大規模な農業開発が始まりました。それがパイロットファーム(実験農場)です。別海町の床丹知区1万haあまりでした。第1地区には264戸、第2地区には195戸、合計459戸の入植が決まりました。10億円ものお金は、世界銀行や国、道から借りました。しかし、1964年までに361戸が入植した時には、この計画は動きがとれなくなりました。物価が上がって、経営費や生活費がかかるようになったのに、収入が少なく、一部の農家は赤字になってきたからです。農家の中には、離農した農家の土地を借りたり、買ったりして、30ha以上の土地をもち、乳牛50頭以上も飼って、乳の収入だけで700万円以上もあげている人もいますが、入植した農家の4分の1はパイロットファームから離れていきました。

 根室地域(標津町・中標津町・別海町・浜中町・根室市)内に「新酪農村」を建設するということで、国家的プロジェクトとして1975年から1980年までに94戸の農家が入植しました。
 *根室支庁の観光HPでは、「1戸当り50haの草地と60〜70頭の乳牛を有するヨーロッパ諸国並の近代酪農団地」と紹介されています。



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