読書ノート 2001-1


  1. アウェーで戦うために

  2. できればムカつかずに生きたい

  3. 愛、聞こえますか?

  4. 南極のペンギン

  5. ビタミンF

  6. 老いの楽しみ

  7. なぜ、宇多田ヒカルがコロンビア大学に入れるのか

  8. 村上ラヂオ

  9. 四国遍路

  10. 新聞を読んで

  11. 森のなかの海

  12. エイジ

  13. 地下街の雨

  14. 最後の家族

「アウェーで戦うために」(村上龍)

 英語には、グッドトライ、という賞賛の言葉があるようだが、日本語にはない。日本にあるのは、よく頑張った、というねぎらいともあきらめとも受け取れる曖昧な言葉だけだ。

 個人がリスクをとってトライすることに対する賞賛がない社会では、ミスをしないことが最優先になる。日本選手が一対一の勝負を避けているように見えがちだったのは、彼らの背後に、個人としてミスを避けなければならないという社会的な価値観があるからだ。

 アメリカ戦でPKを外したのは中田英寿だった。中田は、失敗したが、左のゴールポストぎりぎりを狙って蹴った。中田の判断は間違っていない。ああいう局面では、ゴールキーパーが予測して跳んでも絶対に取れないボールを蹴るべきだなのだ。

 国際的なゲームでは、日本社会の常識が邪魔になることがある。2002年に向けて、オリンピックの収穫は決して小さくないとわたしは思う。

ヨーロッパでも、中南米でも、オリンピックは取るに足らぬもの。そういう前提にたてば、オリンピックはワールドカップとは比較にならないようだ。中田のPK失敗で準決勝にすすめなかった日本だが、龍さんはこんな風に思っていたんだ。確かに、A代表となると、途端に力不足が目立ってしまう。龍さんに対する思い入れもあるが、カズや中山の時代ではないと思う。トルシエ・マジックはまだ有効なのだろうか?ない袖は振れないものなんだが‥。われわれだって、少なくとも、アウェーで戦うという緊張感の中で仕事をしなくちゃならないということだけは、よーく分かったような気がする。



「できればムカつかずに生きたい」(田口ランディ)

十四歳の頃からずっと、なんだかうまく生きられないなあ、と思って悩んできた。
こんなのってあたしだけなのかな、なんか自分としっくりこないなあ。どうしてだろう。どうやったら自分の気持ちに素直になれるのかな。自分がやりたいことにまっすぐ突き進めるのかな、人を恨んだり、やっかんだりしないで、ただ自分だけを見つめていけるのかな。
どうしたら傷ついたり、めげたりしないで、強く生きられるんだろう。
十七歳の頃の日記には、くり返し、くり返し、
「神様、私は強くなりたいのです」
と書いてある。自分の感情に翻弄されないで生きていきたいと切望している。
自分らしく頑張ろうとすると、頭をガンガン殴られた。「でしゃばっている」とか「目立ちがり」とか「自意識過剰」って言われた。そう言われると自信がなくなった。自分なんて取るに足りない人間だって思った方が楽だと思った。でも、そう思うと今度はさみしくて、誰かに「あなたが必要だ」って言って欲しくてたまらない。
あの頃から。もう20年が過ぎてしまった。
私は強くなったんだろうか。今は自分の感情をコントロールできる。苦もなく自己主張できる。他人の感情に巻き込まれることもない。やりたいことをやりたいと言い、できないことはできないと言い、欲しいものを欲しいと言う。好きな人には好きだと言い、嫌いなことはしない。
ずいぶんと楽になった。

田口ランディさんのエッセイを読んだ。よーく解るような気がする。
最近、やたらと本屋で目立つ存在になったようである。以前から、メールマガジンで名前を知っていた。途中で解約していたが、復活させることにした。途端に、婦人科検診の話だ。「プラナリア」もそうだったな‥。
ともあれ、「私は父性を持ちたい」というランディさんに注目してみたい。“青春”を書けるのは、青春を過ぎてからなのかも知れないと思った。決して、ぷれこさんのことを言っているのではない‥。
 



「愛、聞こえますか?」(忍足亜希子)

 刺激 stimulus より 

「もし、耳が聞こえたら、何を聴いてみたいですか?」
と言う質問を、取材で受けたことがあります。私は、
「両親と弟の声を聴いてみたいですね。高いのか、低いのか、柔らかい声なのか、どんなイメージの声なのか、聴いてみたいです」と、答えました。

「手術をすれば、聞こえるようになると言われたら、手術を受けますか?」とも、聞かれました。答えは「No」です。もし、手術が失敗したら? 聞こえるようになった代わりに、聞こえないからこそ、鋭くなっている感性が衰えることになったら?

それを考えると、やはり、私は手術を受けないでしょう。

 この本の編集に関わったぷれこさんの紹介で、読むことになりました。忍足亜希子さんのエッセイ本です。アジアの国々のなかで大きな希望をもった子として育って欲しいという願いを込めて、亜希子という名を付けたそうです。いつも前向きで、笑顔が素敵な人で、気がついたら女優さんだったというような方です。心持ちがとてもかわいい女性だな、と思います。ハリソン・フォードのように、頼りがいがあって、明るくて、楽しくて、しかもハリソン・フォードほど年の行っていない人が理想のようです。
 「人生は平坦ではない。真っ直ぐでもない。いろいろと迷いながら行くものだ。問題にぶつかることもある。そういうときは諦めないで、向かって乗りこえていくものですよ」とおっしゃられた坂本先生の言葉が印象的でした。わたしはいつも教わってばかりです。




「南極のペンギン」(高倉健)

まえがき、より

僕の名前は 高倉健。
映画俳優のしごとをしている。
もう40年以上も 映画の仕事をしている。

さつえいのために、いろんな所へいった。遠い町や、外国へもいった。 
南極へもいった。北極へもいった。
そこで、いろんなことを、見たり、聞いたりした。
そして、いろんなことを考えたりした。

これから、そんな話をしよう。 

ご存じ、健さんの本だ。『あなたに誉められたくて』の続編とみた。この中で、好きな話は「ふるさとのおかあさん」だ。ちょうどある方の葬式で同じシーンに出くわしたことと、映画「あ・うん」を観たところだったから、余計に感じるものがあったわけだ。「アフリカの少年」や「沖縄の運動会」の話は教訓的で、「比叡山の生き仏」はそのままお話として聞かせたいくらいだ。若くて、輝いていた頃の健さんよりも、今の健さんの方がいいな。ルビをつけているから、子どもにも十分読める、いい本だと思う。



「ビタミンF」(重松清)

 後記より 

 現在、ビタミンは十五種類ほど知られている。A,B,Cといったおなじみのものから、ふだんの生活でほとんど意識することのないパンテトン酸やニチン酸まで各種そろったなか、ビタミンFは、ない。

 ないから、つくった。炭水化物やタンパク質やカルシウムのような小説が片一方にあるのなら、人の心にビタミンのようにはたらく小説があったっていい。そんな思いを込めて、七つの短いストーリーを紡いでいった。

 Family, Father, Friend, Fight, Fragile, Fortune ....で始まるさまざまな言葉を、ここの作品のキーワードとして物語に埋め込んでいったつもりだ。そのうえで、いま全七編を読み返してみて、けっきょくは Fiction 、乱暴に意訳するなら「お話」の、その力をぼくは信じていたのだろうと思う。

 わたしは、「セッちゃん」が好きだ。何があったって、加奈子の居場所を誰も奪えない。流し雛に傷をつけられなかった加奈子が言う。「流しても、いじめ、止まんないよ?そんなに、現実、甘くないもん」



「老いの楽しみ」(沢村貞子)

とたんに振り向いた母は、
「つまらないこと、お言いでない。人間、学校の勉強さえできれば、それでいいってわけないだろ。初ちゃんは算術は下手かも知れないけれど、小さい弟たちの面倒をよくみるし、ご飯の支度だっておまえよりずっと上手だよ。人それぞれ、みんないいところがあるんだからね。先生にちょっと誉められたくらいで、特別だなんて、いい気になるんじゃないよ、みっともない」
‥特別という言葉が嫌いになったのは、あのときからのような気がする。

「なに? 女房が起きられなかったから遅れた、とはなんて言い草だ。ゆうべつい飲み過ぎて起きられなかったって言うんなら、俺もおぼえがあるから仕方がねぇ。それを何だ、女房のせいにするとは―自分の始末も自分でつけられねえのか。ちっとは恥を知れ。そんなこったから、ろくな仕事もできねえんだ。てめえなんか豆腐の角に頭ぶっつけて死んでまえ」
母は一度も学校へ行かなかったが、人間にとって何が大切か―よく知っていた。私が治安維持法に触れて引っぱられても、世間に対して肩身が狭い、などとは言わず、逆に『お前のしたことは決して恥ずかしいことじゃないよ』と失意の娘を励ましてくれた。

愛嬌があるのは、食欲ということかしら。さまざまな人間の欲のうち、最後まで残るのはこの欲―とも言われている。そうかも知れない。永く暗い戦争で経験した食物の争いはほんとうにすさまじかったけれど―ただ、この欲にはほどというものがある。おいしいものでおなかがいっぱいになれば、それで満足。 

「普通の暮らし」「恥について」「無欲・どん欲」から抜粋した。「美しく老いるなんてとんでもない」などと言いつつ、下町娘の気っぷのよさそのままに、老いを楽しんだ方だった。「いつまでも若いときのようにしようなんて、全然思いません。自然よ。自然流。でも、遊びっていうのがなくっちゃね」 貞子さんにかかっちゃ、わたしは年端も行かぬ洟垂れ小僧にすぎない。さて、残っている仕事を片づけるとしよう。パンとコーヒーの朝食に、レタスをちぎって、卵でも焼いてみるか‥。貞子さんは、1996年に旦那様のもとに旅立たれた。合掌。



「なぜ、宇多田ヒカルがコロンビア大学に入れるのか」

詳細はまるでわかりませんが‥

ジョージア南大学助教授の小山内大さんによると

「大学への入学基準がとてもゆるやかなアメリカでは、スポーツ選手や芸能人が有名大学に入ることは、たいしてめずらしくはありません。日本の一流大学に入るような厳しさはほとんどないといえます。日本の中堅大学(日東駒専レベル)に受かる学力があれば、アメリカの一流大学には入れるのではないでしょうか。中堅大学や短大になると、入るのはもっと容易です。」

「彼女が通っていたアメリカンスクールでの成績は、ほとんどの科目で最高評価のA+だったそうです。」

「アメリカでは大学へ行きたい者はみな、特別な入試などなしに、どこかの大学へ受け入れられます。この国の人にとっては、もはや大学は“選ばれた者だけが行くところ”ではなく、すでに高校の延長と考えられています。」

「アメリカの教育は“この国では誰でもなりたい者になれる。それがアメリカの国力である”という理想を基本としています。ですから大学へ行きたい者は、多少入学時のテストの点数がその大学の定める基準より低くても入学させ、彼らが望む知識や技術を与えて卒業させるのです。」

「日本では“アメリカの大学は入りやすいが、出るのがむつかしい”と考えられているようですが、それは誤解です。いまでは誰でも入学し、誰でも卒業できます。今日のアメリカの大学は、学生を落第させません。日本のようにテストの点数だけで学生を進級、落第させるようなことは、もうしていないのです。」

「アメリカで“もてる男”というのは、背が高くて、胸板がぶ厚く、腕が丸太のように太いスポーツマン・タイプで、日本でよく見かける、やせて、めがねをかけて、髪をきちっと七三に分けたような秀才タイプは“ナード(Nerd)”といって、しばしば物笑いの対象になるようです。」

ということらしいです。英語力は欠かせないようですが‥。
肝心なことが書けていないようですが、このくらいでいいでしょうか?



「村上ラヂオ」(村上春樹)

 ‥僕はたしかに馬鹿だし、嘘つきだ。自分勝手で、頑固で、それでいて移り気で、短気で、無神経で、教養に乏しく、洗練されていない。都合の悪いことはすぐに忘れちゃうし、意味のないくだらない冗談も言う。協調性ゼロ。人間が浅く、考えの内容は薄い。(後略)

 しかし一度そういう具合に開き直ってしまうと、失うべきものはもう何もない。誰にどんなひどいことを言われても恐くないし、かくべつ腹も立たない。池に落ちてぐしょ濡れになったところに、誰かからひしゃくで水をかけられても冷たくないのと同じことだ。そういう人生って気楽といえば、けっこう気楽です。かえって「そんなひどい人間のわりには、よく健闘しているじゃん」と自信がわいてくるくらいだ。

 かなりの自信を持って思うのだけれど、世の中で何がいちばん人を深く損なうかというと、それは見当違いな誉め方をされることだ。そういう誉め方をされて駄目になっていった人をたくさん見てきた。人間って他人に誉められると、それにこたえようとして無理をするものだから、そこで本来の自分を見失ってしまうケースが少なくない。

 だから、あなたも、誰かに故のない(あるいは故のある)悪口を言われて傷ついても、「ああ、よかった。誉められたりしなくて嬉しいな、ほくほく」と考えるようにするといいです。といっても、そんなことはなかなか思えないんだけれどね。うん。

 図書券の廃止にまつわり、本屋さんをしばしば覗くことが多かった。いろいろ買ってはみるが、気分がすぐれないときは読めないものである。それならば、と立ち読みをしてしまった。

 春樹さんのエッセイものである。もちろん雲の上の人なんだが、たまにはおかしなことも宣うわけで、「ドーナッツ」の起源と「けんかをしない」に微妙に反応してしまった。「そんなひどい人間のわりには、よく健闘しているじゃん」と自信がわいてくる‥そんなものかなぁ? 元々謙遜して言っているわけだから、同じ思いをもってしまうと怪我をするかもしれない。

 ちなみに、3つ目以降は余興で追加してみた。誉められることには無縁で、失態を繰り返すばかりのわたしには関わりのないことである。すでに読んでしまったものを買うということも、無駄使いの悪例である。



「四国遍路」(辰野和男)

 3年にまたがり、6回に分けて歩いたそうです。区切り打ちという言葉を初めて知りましたが、歩くのに要した日数はのべ71日だそうです。わたしの好きなエッセイスト、辰野和男さんの70歳を前にしてはじまったお遍路の記録です。難しいことは抜きにして、挿入された詩や句にも心惹かれました。

 動くもの皆緑なり風わたる (五百木瓢亭)

 風が欅や樫を包み込んでいる。雑多な緑を雑多な緑のままに包み込んでいる。そういう世界に身を置いて己の深呼吸を聴く。呼吸が風の声や虫の羽音にとけこんでゆく。

 かあさん知らぬ/草の子を、/なん千万の/草の子を、/土は一人で育てます。/草があおあお/しげったら/土はかくれてしまうのに (金子みすず)

 章敬師流にいえば、草の子を育てているのは地蔵の力なのだ。土は手柄話はしない。何千万の草の子を育てたんだなどと自慢げにいったりしない。しかも、草が育ったあと、土は隠れてしまい、黙って次の子を育てる準備に入る。それこそが大いなるものの営みなのだろう。そこには、際々しいさかしらごころというものがない。

 そして、辰野さん自身の言葉をふたつ。 

 お遍路をはじめてから、いつのころからか、夜、宿で夕食を終え、床につき、天井を見上げながらセェーカイセェーカイダイセェーカイとつぶやくことが多くなった。子供じみた話で気恥ずかしいことだが、漢字で書けば「正解正解大正解」である。
 今日もいろいろあったけれども、まあ、なんとかいい一日を過ごすことができたと思う。失敗も数々あったが、上出来の日だったと思いこむ。自分をそう思うように仕向ける。そのための呪文がこれだ。お参りしながらナムヘンジョウコンゴウ、ナムヘンジョウコンゴウ、セェーカイセェーカイダイセェーカイとなってしまうことが再三あった。

 深呼吸をするとき、大切なことは吸うことよりも吐くことだ。息を吐いて、吐き切って、肺をからっぽにしたとき初めてたくさんの新鮮な空気が肺に流れてくる。こころに淀んでいる雑多なものを流し去れば、みずみずしいきらめきをもったものがこころに流れこんでくる。と、そう承知はしていても、こころのがらくたを捨て去るのはそんなに容易なことではない。いちばんいいのは、旅にでることだろう。お遍路のような長期間の修行の場であればさらにいい。お遍路をするということは、何かを捨てにゆくことで、捨てて、こころをからっぽにすれば、新鮮なものが流れこんでくるはずだ。
 お遍路は「人生の深呼吸」なのだ。

 実は、わたしも四国生まれの人間なもので‥。車で四国を回った限りでは(念のため、家族旅行で‥)足摺から宇和島へのコースがとても快適で、歩くにはもっとも苦労したところの一つだったと思われます。うむむ‥。



新聞を読んで

 6,23沖縄慰霊の日の次の日、新聞を読んだ。

 ワシントンから届いた「日系人の苦難刻む記念碑」の記事より‥‥

 全米につくられた収容所は10カ所で、12万人が隔離された。44年に最高裁が収容は違憲として、政府は収容を解除、日系人は自由になったとある。強制収容は、ドイツ系やイタリア系には適用されず、日系人に対してだけだった。日本人移民に対する排斥運動にみられる人種的な偏見が背景にあったが、日本軍による真珠湾への奇襲攻撃も、日系人への怒りや恐怖を加えるのを助けた。強制収容に対する補償は、88年になって実現、当時のレーガン大統領は誤りを認めて謝罪した。

 加えて、わが国でのできごとより‥‥さる代議士、曰く。

 「歴史の教科書には、○○党支持者が見れば、はらわたが煮えくりかえることが書いてある。○○党以外の政党関係者、革新の学者や識者が書いていた。だから変な教科書になった。みんな心の中でそう思っていた」
 「採択をする先生方は労働組合に入っている人が多いわけだから、どうしようもない」

 いよいよ、夏がやってきたな‥と思った。偏見に基づく憶測を戒めたい。



「森のなかの海」(宮本輝)

 帯に書いてあったことから。

 1995年1月17日5時46分。未曾有の大震災が阪神・淡路地方を襲った。仙田希美子は、36歳、2児の母。平穏だった日々が震災の日を境に崩れ始める。夫と姑の残酷な裏切り。そして、離婚。希美子は、旧知の女性・毛利カナ江が残した奥飛騨の森を受け継いだ。

 本題から離れたところで、妙に感じたところを紹介してみよう。  

 「どんな言葉も役に立たないほどのご不幸に遭われたけど、ご両親やお兄さんの分までしあわせになって下さい」 父は、イッチャン、ニチャン、サンチャンにそれぞれ同じ言葉で励まし、初対面の挨拶に代えた。三人に対して、一字一句変わらない言葉を使ったことに、希美子は父という人の大きさを感じた。社会的な訓練を十分に受けていればこその芸当だと思えたのだった。

 父は空を見あげ、何かを探しているように視線をあちこちに向けてから、「若者は鳥だよ」と言った。「元気いっぱいの翼を持て余している宝物だよ。その宝物が、天災で放り出されて路頭に迷っている。これが戦争なら、まだ話はわかる。でも、この日本は、天災で親を亡くした子供たちに、なんと無慈悲なんだ。こんな国は、もうおしまいだ」 父はそう言って、雪を蹴ると、二本の栗の木を指差した。「山の栗の木は小さいんだ。だけど、食用の栗の実は大きいだろう? 山の栗の三倍はある。あれは、接木をするからなんだ。大きな栗の実を得るためには、自然のまま放っといてはいけないんだ。接木をしないとね。毛利さんは、こんなにたくさんの栗の木から、十七本の接木の栗の木を植えてる。あのマロン・グラッセは、みんな接木の栗の木に実ったやつだよ」 それから、父は妙に照れ臭そうに笑い、「あの子たちに、希美子が接木をしてあげなさい」と言った。「鳥だから、いつ、どこへ飛んでいってしまうかわからんがね」 「私も、まだ鳥かしら」 希美子の問いに「子連れの鳥だな」と父は言った。

 父は、eメールのやりとりで、会社の若い女子社員から、とても多くのことを学んだ。「あるときねエ 、古参の幹部たちのやり方に腹が立って、だからこの会社は傾いたんだと思って、一人でいらいらしてて、いまいろんないやなことが重なって機嫌が悪いんだって、その子にeメールを送ったら、私のヤカンを貸してあげますって返事が来たんだ」 ヤカン? それはいったいどういうことなのか。父は不審に思って理由を聞いた。その、まだ二十歳にもならない女子社員は、自分のワンルームマンションの壁に、空のヤカンをつるしてあるという。腹の立つこと、悔しいこと、哀しいこと、理不尽なこと‥‥‥。そういうものが身辺に生じると、ヤカンのなかにそれらを閉じ込めてしまう。それらは自分のなかから消えたのではない。いったん自分のなかから出して、ヤカンのなかへと入れ替えたにすぎない。マンションに帰ると、いつもそのヤカンは目の前の壁に吊り下がっていて、なかには一年前の怒り、八ヵ月前の悔しさ、半年前の哀しみが入ったままになっている。「バカヤロー、そこにずっと入っていろ」 ときおり、それぞれの感情が詰まったヤカンにそう悪態をついているうちに、ヤカンはいつの間にか元の空っぽに戻っていくのだ‥‥。「そのヤカンをね、俺に貸してやろうと言うんだよ」

 友人からの刺激を受けて、読んでみた。宮本輝さんの最新作だ。主人公の希美子の父親の言葉ばかりをならべてみた。 



「エイジ」(重松清)

 重松清氏の作品である。「ビタミンF」「ナイフ」のあとで読んだ。ふと、灰谷健次郎氏の「天の瞳」と重ねて、どちらもそのままの少年を描いたものだが、こちらのほうが近いかな、と思った。

 一年生の教室が並ぶ一階の廊下を歩きながら、笑った。逆ギレなんか、できるわけない。ぼくはキレない。なんとなく、そこには自信がある。たるんでいる紐はキレないんだと土屋先生も言っていたし、ぼくは毎朝、レタスとプチトマトを食べている。

 シカトと他のいじめには、目立つかどうか以外にも、はっきりとした違いがある。暴力や金がからむいじめは暴行とか傷害とか恐喝とかの犯罪にくっつくけど、日本の法律に無視罪という犯罪はない。言葉のいじめに対して「二度とそんなことを言うな」と説教する先生も、シカトを叱るときに「二度と無視するな」とは言えないはずだ。なぜって、誰としゃべろうが誰としゃべるまいが、それは個人の自由なんだから。頭いいよなあ、とぼくはシカトのいじめを世界で初めて考えついたやつを尊敬する。相手の存在を無視するのは、究極のいじめだ。これに比べれば、殴ったり蹴ったり傷つく言葉をぶつけたりするなんて、相手と接点を持つぶん甘いんじゃないかとさえ思える。たいしたものだ。シカトの創造者を尊敬する、本当に。でも、ぜったいに、ぼくはそいつを好きにはならない。

 ぼくはいっとう太い筆をとった。筆に直接、赤い絵の具を絞り出した。ちょっとだけ水につけて、コンクリートの床に大きなーぼくの顔ぐらいある「お日さま」を描いた。「あ、エイジ、おまえなにやってんのよ、ヤバいよ、オレらがやったって一発でわかっちゃうじゃん」 「いーのいーの」 サインも入れよう。ふと思いついて、『 Eiji 』じゃない『 Age 』と描いた。ツカちゃんはサインを覗き込んで、不思議そうに首をひねる。「なに、この『アゲ』っての」 ボケてるわけではなさそうだ。「ツカちゃん、おまえ、英語勉強しないとマジにヤバいぜ」 「はあ?」 「来年だもんなあ、もう、受験」 「うん‥‥だよなあ、早えよなあ、チューガクって」 「コーコーなんて、もっと早えってよ、姉ちゃん言ってた」 ぼくたちは、タイミングを合わせたみたいにため息をついた。空を見上げた。薄曇りの空に浮かぶ幻の「お日さま」が、まぶしい。空の、ずっと高いところに、飛行機雲が見えた。ところどころ途切れながら、まっすぐに、遠くまで。

 こんな子どもたち173人と付き合っているんだと、今更ながら考えた。ひょっとしたら174人だったかな、と思う今日この頃。夏休みも終わりに近づいたわけで、もう少し現実的な読書に切り替えていくかな? お仕事モードに切り替えて、自分を追い込んでいこう。来週からは、3度目の手術と部活と2つの出張が待っている。うむ、体力と気力の充実を図らなければならない‥。



「地下街の雨」(宮部みゆき)

 裏表紙掲載の紹介より

 麻子は同じ職場で働いていた男と婚約をした。しかし挙式2週間前に破談になった。麻子は会社を辞め、ウェイトレスとして再び勤めはじめた。その店に<あの女>がやって来た‥。

 宮部みゆき作。騙されたのが悔しくて、UPしてみました。



「最後の家族」(村上龍)

 村上龍「最後の家族」を読み終えた。
 「共生虫」に続いての“ひきこもり”がテーマであったが、こちらの方がずっと良かった。
 家族のそれぞれに希望が見えたからだ。

 テレビ朝日系の連ドラとなるようだが、龍さんの匂いにどこまで近づくことができるのだろうか?

 娘の知美の行き先がペルージャであることがおかしかった。
 しばしば中田選手(現在はパルマ所属)に会いに行っていたから、この町が気に入ったのだな。

 10月18日(木)夜9時に注目。
 近づいたときには、是非とも教えていただきたい。
 わたしはしばしばテレビをみないのだが、こればかりはみたいと思っている。

 龍さんが言いたかったことは‥あとがきより 

 この小説は、救う・救われるという人間関係を疑うところから出発している。誰かを救うことで自分も救われる、というような常識がこの社会に蔓延しているが、その弊害は大きい。そういった考えは自立を阻害する場合がある。



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