読書ノート 2000-2


  1. 共生虫

  2. チンギス・ハーンの一族

  3. 希望の国のエクソダス

  4. 世のため、人のため、そしてもちろん自分のため

  5. ぼくは勉強ができない

  6. 青い鳥は生きている

  7. 歩けば、風の色

  8. 十五歳

  9. iモード事件

  10. GO

「共生虫」(村上龍)


 この作品の最終章を書いているとき、希望について考えた。小説の最終部分を書いていてそんなことを考えたのは初めてのことだった。  

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 

 現代の日本の社会が希望を必要としていないように見える理由としては、社会全体が現実を正確に把握していないという点に尽きる。現実を正確に把握しないと、未来のことを考えることはできない。

 あるいは、社会的な希望がどうしても必要な時代は終わっているのかも知れない。社会が用意すべきものはお仕着せの希望ではなく、さまざまなセイフティネットではないだろうか。すでに希望は、社会が用意するものではなく、個人が発見するものになっているのかも知れないが、そういったことは巧妙に隠蔽されている。つまり、古くて使いものにならない希望や、偽の社会的希望があふれているのだ。 

 引きこもりの人々は、偽の社会的希望を拒否しているのかも知れない。

村上龍作。「あとがき」の部分を何度も読み返している。折しも、17歳の少年による犯罪が連続している。ところで、彼が高額納税者の作家部門ベスト20に入っていないところが不思議だ。金にならぬ仕事をしているところがいいのかもしれない。社会に対して、十分に挑戦的である。

  


「チンギス・ハーンの一族1・2」(陳舜臣)


 陳舜臣著。草原の覇者、チンギス・ハーンとその一族の話である。草原を駆け抜けた勇壮な騎馬民族の物語である。そのスケールの大きさは、農耕民族たる漢民族の比ではない。もちろん日本民族に比べるべくもない。その自由で奔放な生き様は魅力たっぷりである。モンゴルの歴史はチンギス・ハーンとともに始まった。

 降るものは許し、逆らうものは皆殺し。主君を裏切るものは断じて認めない。モンゴルの掟である。チンギス・ハーンが草原の覇者となり得た秘密のひとつは、自分の賢さ、意図を敵に悟られないようにしたことだ。それに、塞外遊牧民族(モンゴル周辺)も、色目人(トルコ・イラン・アラビア人)も、漢人(黄河流域の中原人)もチンギス・ハーンの元に集まるものは積極的に才能を認め、使いこなしたことだ。

 大陸は、はるかなる草原の道を通じてひとつ。生きることは真実を貫くこと。権力にへつらうことではなく、高潔であること。 

 「宋領に住む漢人は、モンゴルの呼び方では―蛮子であった。これは「未開人」といういささか軽蔑の意味をふくんでいる。南宋の人たちにとってみれば、自分たちこそ文明の中心にいるのに、蛮と呼ばれるのは心外であったに違いない。だが、モンゴル風の価値観では、北方がすぐれていて、南に行けば行くほど、野蛮なのである。誰も蛮子の国に行ったものはいなかった。南方はショウレイの地であり、気候風土もよろしくない。さっぱりしたのがよく、じめじめしたのは、本来人間が住むところではないというのが、北方人の常識なのだ。」

 中国に勝ち目のない侵略戦争を仕掛けた島国農耕民族の器では到底かないそうにない。いかなる近代的武器や経済力を持ってしても、征服は夢のまた夢でしかなかったのだから、草原の覇者を理解するのはほど遠いのかも知れない。風のように草原を馳せた偉大なるチンギス・ハーンとその一族の栄光に拍手を贈りたい。



「希望の国のエクソダス」(村上龍)


 「龍声感冒」という私の読者が作るインターネットの掲示板で、今すぐにでもできる教育改革の方法は?という質問をした。もう4年前のことだ。正解者には何か景品を出すということにして読者の興味を煽ったのだが、残念ながら正解はなかった。

 私が用意した答えは、今すぐに数十万人を超える集団不登校が起こること、というものだった。そんな答えはおかしいという議論が掲示板の内部で起こり、収拾がつかなくなった。

 この小説は、著者校正をしながら、自分で面白いと思った。そんなことは実は初めてで、なぜ面白いと思ったのか、いまだにわからない。

 またまた、村上龍である。ボクはここのところ、彼に夢中である。挑戦的で、刺激的と書いたことがあるが、今回は、感動の余り涙が出てしまった。ボクができることは、この本を仲間たちに読んで欲しいと伝えることだけなんだけれどね。



「世のため、人のため、そしてもちろん自分のため( Rie & Ryu e-mails )」(村上龍)


村上「若い人は今、勉強でも何でも自分がやりたいことを見つけた瞬間に孤独にならざるを得ないね。」

りえ「本当にそうだと思う。」

村上「そうなったら居酒屋で仲間と一緒に一気飲みなんてできないからね。部屋にこもって勉強したほうがいいもんね。」

りえ「でも孤独なときにどういうことができるかが、その人の価値じゃないかと思うの。ひとりの時間を充実して過ごせない人は結局ダメな人なんじゃないかしら。」

村上「別に日本のために生きていないでしょう?」

りえ「生きていない。」

村上「まず自分のためでしょう。」

りえ「そう。それで自分が充実できたら、少し日本にお返しはすべきだと思う。」

村上「ただ、世のためも、人のためも、自分のためも、全部パラレルなんだよね。世のためというのがあって、そのために自分を犠牲にすることなんてあり得ない。」

りえ「それはあり得ないわ。」

村上「自分のためだけに何かをして、社会は関係ないということでもない。」

りえ「それもあり得ない。」

村上「そういう子が増えてほしいよ。」

りえ「うん、もっと増えればいいのにと思う。」

  村上龍「世のため、人のため、そしてもちろん自分のため」( Rie Ryu e-mails )と題する最新刊の本である。「69」以来のファンだが、最近の方がよく読めるようになってきたと思う。 一緒に年齢を重ねてきた同世代故、感じるものがあるような気がする。 むしろ、他世代の人にどう感じるのかを尋ねたいほどだ。 龍さんのメールマガジン、「JMM」を紹介していただいたのはわが奥様の弟さんだが、2人のメールの続きまで読ませていただいたことになる。 それが今まさに終わろうとする時に偶然巡り合わせたのも虫の知らせだったかも知れない。感謝!

オウム真理教、鉄道員(ぽっぽや)、いじめ事件などにふれながら、結局は自分を語っている。残念なのは、知的なりえさんのすばらしさをここに書けなかったことである。

「共生虫」はつらかったが、「希望の国のエクソダス」はすごかったことも付け加えておこう。



「ぼくは勉強ができない」(山田詠美)


 「脇山、おまえはすごい人間だ。認めるよ。その成績の良さは尋常ではない」

 「‥‥そうか」

 「でも、おまえ、女にもてないだろ」

 脇山は、顔を真っ赤にして絶句した。‥‥ 真実の許にひれ伏した愚か者の顔。

 次は、あとがき(山田詠美)より‥‥

 そう思いながらも、私の心は、ある時、高校生に戻る。あのときと同じように、自分のつたなさを嫌悪したり、他愛もないことに感動したりする。そんな時、進歩のない自分に驚くと共に、人には決して進歩しない領域があるものだと改めて思ったりする。そこで気づくのだが、私はこの本で、決して、進歩しなくてもよい領域を書きたかったのだと思う。大人になるとは、進歩することよりも、むしろ進歩させるべきでない領域を知ることだ。

 主人公の時田秀美は高校生だ。長いことかけて少しずつ読んでいたから、最後のころには、彼が小学校の高学年の子どもだと思っていた。こましゃくれた子どもがそのまま成長したわけだと勝手に解釈した。ユニークなおじいちゃんと知的で奔放な母。どうして母子家庭だと、子どもがひねくれて育つと決めつけるんだ?とは作者の言葉に違いない。ちなみに、最後の解説は原田宗典である。まじめに書いている。



「青い鳥は生きている」(国方学)

 ふつう人からすすめられた本は読まない。というよりも、読めないものだ。たぶん、読むにもレディネスなるものがあって、そのときどきの思いに従い、読みたいものを選んでいると思う。知らず知らずのうちにだ。そのことに、最近ようやく気がついた。 

 今回は、ネット上でのことだった。まだお若いお方が急に白血病で亡くなり、そのホームページが閉じられたことが、何人もの知り合いの方の記事にあった。何となく読んでみたいなと思って捜したところ、親しくなっていた友人のページにその方の遺稿というべき詩集が掲載されているのを知った。ようやくたどり着いたという思いでむさぼるように読んだと思う。いいものはゆっくり読みたいといつもなら思うのだが、死を前にしてのものとは思えぬ透明感のある詩に圧倒されてしまった。生きること、夢を持つことを書いたその詩からは、悲壮感はまったく感じられなかった。ところが、しばらくしてそのページは閉鎖されてしまった。心ない者のために彼女の心を汚されたくない、という身内の方の思いがあったようだ。ひどいヤツはネット上にまで確かに進出している。

 著者の国方学さんに近い、わがお友達(同じく児童文学の作品を書いておられる方‥私は愛読者のひとり)から教えていただいたのがこの本だ。司書の先生にお願いして買っていただいた本が、多くの子どもたちに読んでもらえたら‥と念願する。以下は、国方学さんの「あとがき」である。

 ある新聞の日曜版にのっていた一枚の写真にショックを受けたのが、この物語を書くきっかけです。写真は、ひまわりのようなまん丸い顔の娘さんが、にっこりわらってVサインをしていました。でも、彼女の頭には1本の毛もありません。写真の横には『私にはドナーが見つかりました』という見出し。白血病のおそろしさと骨髄移植の大切さをうったえる記事だったのですが、移植手術のめどがついた彼女は喜びにかがやいていました。

 彼女のぼうず頭にショックを受け、白血病についていろいろ調べた上で一本の小説を書きました。( 略 )

 ところが、連載がおわってから、じつは写真の彼女が亡くなっていたことがわかったのです。わたしは最初のときよりももっと強いショックを受けました。と同時に、ハッピーエンドでおわる自分の作品の脆弱さを思い知らされたのです。( 略 )そして、最初から最後まで全部書きなおして、ふたたび世に問うことにしました。

しばしば、子どもよりも大人が読むべき場面に出くわす。純くんの両親、ゆかりちゃんのお母さん、小鳥屋のホウじいさん、それぞれの役割があって、純くんをいつも見守り、ささえている。純くんの訪問を待つゆかりちゃんのちょっとした気持ち‥こんな書き方が好きだ。 



「歩けば、風の色」(辰野和男)

 前作の『風と遊び風に学ぶ』以来のファンである。もっと遡れば『天声人語』以来である。もちろん現役のときではなくて、引退後にまとめて出版された『天声人語』のことである。  

 飾らず、いたずらに長くない。それでいて、いつも感動的である。エッセイにこだわってみたい私にとって、模範とすべき名文である。閉ざされた狭い世界でしか生きていない自分とは比べようもないが、その広さとか深さには敬服するばかりである。

 広い世界と関わって、素晴らしい人と会って、それをいつもさわやかな風として感じる。あるいは、風のように自由である。言葉にとらわれず、私も風に学ぶ姿勢を持ちたいと思う。

 「ドイツ兵捕虜の遺産」「コンニャク先生のこと」「いい気になるな」「西吾妻のゴミを拾え」「ノー・プロブレムの温かさ」「知床の羅臼を歩く」「いきいき村の土と風と」 ‥ すべてに感じるものがあり、感動を薄めたくなくて、少しずつしか読めない。まだ、続いているのだ。

 小さなことにくよくよし、煮立ち、われを忘れてしまうとき、ここに戻ってこようと思う。いい本といい文章に出逢えたことに感謝したい。



「十五歳」(山田洋次)

 山田洋次監督著。映画「十五歳 学校W」の小説バージョン。帯に書かれた紹介文より‥  

 「何で学校に行かなきゃならないんだ。明るくて、素直で、賢くて‥。そんな子だけがいい子なのか?」そんな心の叫びを抱えた中学生の川島大介は、学校に行かなくなって半年になる。

 ある日彼は、九州・屋久島の縄文杉をめざして旅に出た。ヒッチハイクで屋久島に渡った大介は念願の縄文杉に辿り着く。(後略)

小説としての深みに欠けるのは、致し方ないところかな。映画を観るようにできているわけだ。映像を通して描かれる大介の心象風景なるものを感じてみたい。

 屋久島には行ったことがない。だから、縄文杉とは映像を通して、はじめて出会うことになるんだな。どんな旅であっても、意味のないものはないだろう。これで、映画の鑑賞券の使い道ができた。久しぶりみたいだ。  



「iモード事件」(松永真理)

 推理小説ではない。ビジネス書である。リクルートから引き抜かれる形で、NTTドコモに入社し、わずか3年で“iモード”を産んだ「七人の侍」の一人とご本人は言う。わたしは、この本を読み始めた途端にドコモの N502it を買ってしまった。著者の松永真理さんと付き合ってみたかったからだ。公衆道徳に反することさえなければ、後は自分次第‥うんと、遊んでやろうと思ったんだ。  

 2000年のウーマン・オブ・ザ・イヤー受賞者(「日経ウーマン」主催)に選ばれた真理さんの闘いの日々そのものよりも、ふと漏らす言葉が心に滲みた。最近はよくあることなんだけれど、この本が終わりにさしかかったとき、涙が出た。女40代も働き盛りである。

 もう、何年も前のことになるが、映画の舞台発表のことを思い出した。それは、薬師丸ひろ子のデビュー作「野生の証明」のとき。彼女は十四歳とは思えないスピーチをした。「今回、高倉健さんと共演できたのは、夢のようでした。それに、いろんなスタッフの方と一緒に映画を創れたのが、幸せでした。それで、ひとつお願いがあります。どうぞ、スタッフの方の名前が全部出るまで、席を立たないで下さい」

 私はふらりと部屋を出て、近くの公園の桜の花を眺めた。桜並木は至るところにある。花はどこででも、その美しさを愛でられる。でも、たった一人で見る桜は、それが鮮やかであればあるほど、むなしさを感じさせる。私は再び何とも言えない寂しさを感じた。子どもがお菓子をねだるように、私はねぎらいの言葉を渇望していた。この何ヶ月もの頑張りを、誰かにたった一言でいいから「よくやった」と言ってもらいたかった。劣等生の子どもが、一生懸命に勉強してやっととった点数。優等生と比べれば鼻もひっかけられない数字でも、いや、そういう数字であればあるほど、近くにいる誰かの「でもよくやったよね」という言葉を、気持ちの上でねだっていた。

 わたしは、とてもとても、そんな立場にはないが、「よくやったね」と言おう。これによく似た話は、身近にある。いずれ、その言葉を贈りたいと思っている。



「GO」(金城一紀)

 金城一紀氏のデビュー作で、第123回直木賞受賞作である。この作品を読み終えるのに長い時間を掛けてしまった。読み終えるのが惜しかったからかも知れない。いやいや、ネットから離れた旅先だったから、読めたのかも知れない‥。  

 古く良き青春小説の系譜として読むか、新しいレジスタンス小説の誕生として受け止めるかは、あなたのご自由。いずれにせよ、愉快、痛快なこの物語の主人公に、読者は、はからずも涙する。(山田詠美氏)

 本文より 

 「‥君は間違っているよ」と僕は少し強い口調で言った。「君の『桜井』っていう苗字はね、元々は中国から日本に渡来した人につけられた名前なんだ。そのことは、平安時代に編まれた『新撰姓氏録』っていうのにちゃんと載っているよ」

 「むかしの人には苗字なんてなくて、あとから適当につけたって話を聞いたことがあるけど。だから、わたしの先祖が中国の人だなんてわからないじゃない」

 「その通り。君の先祖が桜井家に養子に入った可能性もあるしね。それじゃ、もっと遡ろう。君の家族はお酒が飲めなかったよね?」

 桜井はかすかに頷いた。

 僕は続けた。

 「いまの日本人の直接の先祖と思われている縄文人にはね、お酒が飲めない人は一人もいなかったんだ。これはDNAの調査で明らかになっている。というか、むかしのモンゴロイドたちは全員お酒が飲めたんだ。ところが、約2万5千年前の中国の北部で突然変異の遺伝子を持った人間が生まれた。その人は生まれつきお酒が飲めない体質の持ち主だった。そして、いつ頃かは分からないけど、その人の子孫が弥生人として日本に渡来して、お酒が飲めない遺伝子を広めたんだ。君はその遺伝子を受け継いでいる。その中国で生まれた遺伝子が交じっている君の血は汚いの?」

 沈黙。

 「お父さんに‥‥、子どもの頃からずっとお父さんに、韓国とか中国の男とつきあっちゃダメだと言われていたの‥‥」と言った桜井に、僕は答える。DNAをもちだすあたりが現代的で、また科学的だ。さて、もう一度、縄文・弥生時代の本を読んでみよう。ミトコンドリアDNAには、かすかな記憶が残っている‥。



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