読書ノート 2000-1


  1. 村上春樹にハマった頃のこと

  2. 甘やかされるこどもたち

  3. 喜びは悲しみのあとに

  4. 奇跡的なカタルシス

  5. 天の瞳(少年編)

  6. 誰にでもできる恋愛

  7. 神の子どもたちはみな踊る

村上春樹にハマった頃のこと


 ようやく、村上春樹をまとめてみる気分になった。1999年春から夏のはじめにかけて読み進める中で綴っておいた断片の寄せ集めに過ぎないけれどね‥‥。彼の粘り強さには、まったく参ってしまう‥‥。でもよく分かる。ちなみに、「スプートニクの恋人」がやっぱり一番いいかな。

 今はずっと村上春樹氏の「ねじまき鳥クロニクル」なんていう3部作の長編を読んでいます。もちろん、「スプートニクの恋人」を読んだからです。その前作品を読んでみたかったからです。いつもと違って、ずいぶん時間がかかりすぎているかもしれません。この連休には、読み終えたいと思っています。

 ちなみに、「ねじまき鳥クロニクル」をようやく読み終えました。そしてもう一度「スプートニクの恋人」を読んでいます。2度目のほうが断然いいです。

 このところずっと、本当に村上春樹の作品ばかりです。「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読み終えました。少々難解ではあるが、「スプートニクの恋人」への道のりを感じ取ることができました。キーワードは「井戸」だと思います。

 「蛍」他の短編集と「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」を読み終えたところで、ようやく「ノルウェーの森」にかかったところです。ここではじめて知ったことですが、「蛍」がそのまま「ノルウェーの森」のはじめの部分と重なっていたようです。

 「何はともあれ、私は自分があなたに対して公正ではなかったと思います。そしてそれでずいぶんあなたをひきづりまわしたり、傷つけたりしたんだろうと思います。でもそのことで、私だって自分自身をひきづりまわして、自分自身を傷つけてきたのです。言いわけするわけでもないし、自己弁護するわけでもないけれど、本当にそうなんです。もし、私があなたの中に何らかの傷を残したとしたら、それはあなただけの傷ではなくて、私の傷でもあるのです。だからそのことで私を憎んだりしないでください。私は不完全な人間です。私はあなたが考えているよりずっと不完全な人間です。だからこそ私はあなたに憎まれたくないのです。あなたに憎まれたりすると私は本当にバラバラになってしまいます。」

 ―「ノルウェーの森」より― 
 

 「ノルウェーの森」を、ようやく読み終わりました。本物のノルウェーが舞台なのではなくて、ビートルズの曲名なんです。 

 いつもの逆で、村上春樹氏の小説を、最近のものから古い時代のものへと読んでいます。いろんなことが見えてきて、これはこれで面白いものです。次は「羊をめぐる冒険」の番です。

 「羊をめぐる冒険」を読み終わり、今は「国境の南、太陽の西」を読んでいます。ここまで来たら、ほぼすべてを読み終えたいと思います。「村上春樹にハマっている」と書いてしまったからネ。

 村上春樹も、後2冊読んでしばらくお預けにしたいと思います。「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」です。まもなく終わりそうです。

 そう思いながら、「ダンス・ダンス」まで読んでしまいました。本当にお預けです。次に読むとしたらまた、「スプートニクの恋人」に戻ると思います。すてきなラブストーリーとは、わが親愛なる友の言葉。

 「もちろん歳をとっても、心が傷つくことはいくらでもある。でもそれを露骨に表に出したり、あるいはいつまでも引きずっていることは、それなりに年齢を重ねた人間にとっては相応しいことではない。僕はそう思った。だからたとえ傷ついても頭に来ても、それをするりと飲み込んでキュウリみたいに涼しい顔をしているように心がけた。最初はなかなかうまくは行かなかったけれど、訓練をかさねるうちにだんだん、本当に傷つかなくなってきた。」

 ―「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」より― 

 問題は、「傷つかないことについて」ではなく、「傷つけることについて」です。そんなつもりはないと思いながら、自分がおかしいと気づくときがあります。冷静でなければならない、慎重でなければならないときがあることを厳しく肝に銘じなければと、一生懸命考えているところです。弁解の余地はありません。

 「この世界では人は誰でも、無自覚のうちに誰かに対する無意識の加害者になりうるのだという冷厳な事実だった。僕は今でも一人の作家として、そのことを深く深く怯えている。」

 ―「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」より― 

 凡人には厳しい言葉です。どの作品においても、同世代故に感じる語彙を見つけて、あらまあ!と笑ってしまうことがあった。心が鍛えられているのかな? こちらも、負けてはなるまいと必死ではあるが、かなわないよネ。何事も諦めてはならないと思うから、その分、とても疲れるけれど‥‥まだまだ頑張ってみたいと思う。


「甘やかされるこどもたち」(クライン孝子)


 これはドイツの社会における法則かもしれませんが、こどもを「しつける」ということは、常に「自立させる」ということを意味します。
 親のこどもに対する「自立哲学」というのがまた愉快でもありユーモアがあります。そこには親のエゴが見え隠れしているからです。 
 親のエゴというのは、「自分がほしいというので生んだこどもだから、こどもが一人前になるためのしつけはする。社会にでるための準備として、自立するためのノウハウも教える。でもそのあとは本人の生き方の問題であって、彼、彼女がどう生きようと勝手。親はなるべく関わりたくない。親の責任と義務を果たしてしまえば、あとはできるだけこどもたちから解放してもらって、自分の人生を楽しむ。こどものどれいにはならない」というものです。
 このようにドイツの親は非常にクールですから、こどもたちは親から基本的な社会における生き方みたいなものを教えてもらったあとは、それぞれ自分で自分の生き方を見つけて、自立していかなくてはなりません。
 春樹くんのご両親のように、こどもに何がなんでも自分の職業を継いでもらうという気持ちは、ドイツ人の親には少ないようです。親は親、こどもはこどもと割り切っているからで、自立すれば、親はこどもの人生など知ったことではない、と、こどもと一歩距離を置いてしまうのです。

 以上は、フランクフルト在住のノンフィクション作家、クライン孝子さんの作品中の「親もこどもから自立する」より。自立しなければならないのは、こどもだけでなく、親も、である。ヨーロッパ的な「個性」「自立」と日本のそれとの違いは歴然としている。とってつけたような「個性」「自立」ではどうしようもないところまで来ていることに気づかなければなるまい。

  


「喜びは悲しみのあとに」(上原隆)


 おもしろいこと、なにもない 
 自分は、ほんとうに自分のゲームを 
 していない
 誰もがみんな、そんなふうに思っている
 ねえ、でもこれだけはいえる
 完璧な人生なんてありえない
 だから喜びや悲しみを経験するの 

 つらい過去を話してくれた友だちが
 こういったよ
 「人生でやらなければならないことなんて
 案外いま、やっていることだったりするのさ」

 ね、あなたは暗くならないで  
 いまはつらいだろうけれど
 みんなそうしている、あなたも大丈夫
 これ知ってればくじけないよ
 もう、わかったでしょう
 喜びは悲しみのあとにかならずやってくる 

 

(キャロル・キング「喜びは悲しみの後に」より)
 

 村上龍の対談集「最前線」のあと、最も印象に残った上原隆氏の「喜びは悲しみのあとに」を読む。前作の「友がみな我よりえらく見える日は」を続けて読んだ。

 上原隆氏の前作のテーマは「つらいことや悲しいことがあり、自分を道端にころがっている小石のように感じる時、人は自分をどのようにささえるのか?」である。今回はつらい場面の描写だけではなく、それを乗り越えた瞬間にぱっと輝く喜びの表情を記録したい、とのことだ。

 最近流行の癒し系ではない。近代化が終わり、共同体が崩壊したいま、個人としてどう生きるのかを問う作品である。さみしくて悲しいことだが、この時代に生きる者が避けては通れないテーマである。大人もこどももである。生のコミュニケーションが何よりも大切なときである。決して、後戻りをしてはいけないよ。


 こころよく 我にはたらく仕事あれ
 それを仕遂げて死なむと思ふ

(石川啄木「一握の砂」)

  

「奇跡的なカタルシス」(村上龍)


 わたしにとってもっとも印象に残るサッカーのエピソードは、1942年にナチスドイツの代表チームと対戦したウクライナのディナモ・キエフに関するものだ。当時ウクライナはナチスの占領下にあった。ウクライナの民衆は、飢えや恐怖と戦い、暗殺や拷問や強制収容所への移送などに怯えながら暮らしていた。そういう状況下で、ウクライナの名門クラブ、ディナモ・キエフはナチスドイツの代表チームと対戦したのだった。 
 万が一勝ったりしたら、命がないと思え、選手たちはそう警告されていた。負けるしかないとあきらめ、飢えと寒さと恐怖でぼろぼろになってゲームを始めた選手たちだったが、彼らはプライドを捨てることができなかった。またサッカーはウクライナの人々の生きる希望であっただろう。 
 試合後ユニフォームのまま選手たちは銃殺された。 

 (村上龍がサッカーファンとは知らなかった。並大抵のものではない。おかげでするすると巻き込まれてしまった。)

 サッカーのカタルシスは爆発的でそれがゴールという奇跡によって成立することを考えると宗教的ですらある。サッカーより刺激的な人生を送るのはそう簡単ではないような気がする。 

 (こんなこと書くんだなあ‥‥)

  


「天の瞳(少年編)」(灰谷健次郎)


 「子どもを色眼鏡で見るのはよくないけれど、早とちりそのものは悪意じゃないわ。ほんとうのことがわかって、居場所がなくなったのはどっちの方?」
 「‥‥‥‥」
 「どんな場合でも、相手の立場に立って、ものごとを考える部分を残して置ける人が、深い人間なんでしょ。あなたは、このことを、おじいちゃんから、しっかり教えてもらって成長したんじゃなかったの」
 「‥‥‥‥」
 「居場所のなくなった相手に、自分に理があるからといって一方的に責め立てるのは、ほんとうに勇気のある人がすることなの」
 「‥‥‥‥」
 「人は、ときには憎むことも必要な場合もあるでしょうけれど、憎しみや怒りにまかせて行動すると、その大事なところのものが、ふっ飛んでいまうのがこわい。あなたにお説教しているんじゃなくて、わたしも気をつけなくてはいけないことだから、いうのよ」
 「‥‥‥‥」
 「憎しみで人に接していると、人相が悪くなるわ。正義もけっこうだけど、人相の悪い人を友だちに持ちたくない。わたしは」
 「‥‥‥‥」
 倫太郎は、ついに、一言も発することはなかった。

 悩めるときは村上春樹に、強くなろうとするときは村上龍に頼ってしまう。しばらく、スランプだったが、灰谷健次郎氏の「天の瞳」少年編を読んで気持ちが安らいだ。1月が終わろうとしている。暦の上でもいい。春の訪れが待ち遠しい。

  


「誰にでもできる恋愛」(村上龍)

 「大切だと思う他人のために何かできることがあるということよりも、大きな喜びは他にないと私は思っている。他人が自分のために何かしてくれることよりも、自分が他人のために何かをなしうることのほうが、贅沢な喜びだ。」 

 「私だって、死んだほうがましなのではないかと思ったこともある、というのは嘘で、どんなに辛くても死にたいと思ったことはないが、そういう辛い時期も人生にはあるのだということを知っている。
 そういうときの人間は暗くて辛いことばかりを考えてしまう。楽しいことなんかこれから何もないような思いに促われてしまう。少しだけ何かが自分の中で変われば、たとえどんな辛いことがあったとしても自殺なんかすることはないとわかるものだ。それは実に精神力などではない。人間の精神力などたかが知れている。たとえばトップアスリートが厳しい練習にも耐えるのは、偉大な精神力を持っているからではなく、彼がそのスポーツを好きだからだ。またどんだ辛いことがあってもわたしたちは希望があれば耐えることができる。今の子どもたちがすぐに自殺したり人をナイフで刺したりするのは精神力が弱いからではなく、なんの希望も探すことができないからだと思う。希望を探すのは難しい。」 

 「誇りという感情は、そのように大昔から男たちに伝統的にあって、それを捨て自分の弱さを認めて素直に、もっと楽に生きろと言われても、簡単にはいかない。女子どもの前で惨めな姿をさらしたくないという思いはどんな男にだってある。別に威張りたいわけではないし、誉めてもらいたいわけでもない。威張るという行為のほとんどは甘えだから、むしろ誇りというのは、甘えずにすむために、すなわち威張ったりしなくてもすむために必要なのだ。そして誇りが自信を生む。本当に自信のある人は決して他人に威張らない。必要がないからだ。自信があるときは誰にも甘えずにすむ。」

 「誰にでもできる恋愛」という題名にこだわらないで下さい。村上龍の最新作の題名だし、逆説的な表現でもあるようです。ちょっと最近、攻撃的で刺激的な村上龍にこだわっているに過ぎないのです。別に、悲しがっているのではなく、辛いと言っているわけでもありません。「辛さ」や「悲しみ」という言葉ほど人を不快にさせる言葉はない、と最近つくづく思っています。こんな言葉に振り回されていては救いはありません。ただ、とことん掘り下げていって、一番深いところまで行って、そこから出直せると思うからに過ぎないのです。さて、甘やかされる子どもたちに続いて、甘えの中にいる大人たち、ボクらはこれを克服しなければならないと思います。社会的な「甘えの構造」と甘えの中にいる個人、どちらも大変だな。 

 ここしばらく、こんな感じの本ばかり読んできたからといって、誤解しないで下さい。現場の教師が病んでいるなんて、拡大解釈しないようにお願いします。ズシリと来るような辛いことはあります。でも、楽しいことだってあるんです。子どもたちの笑顔ほど、嬉しいことはないでしょう。毎日が子どもたちとの格闘だし、ボクだって相当の負けず嫌いなんです。ボクは今、人生なるものをポジティブにみているし、人間関係なるものについても以外にひょんなところに解決策はあると思っています。ただ、性急であってはならないと戒めているだけなんです。

  


「神の子どもたちはみな踊る」(村上春樹)

 村上春樹の連作「地震のあとで」その1〜その6である。久しぶりに彼の作品を読んだ。繰り返し読んで、ようやく安心できた。最後の作品「蜂蜜パイ」(書き下ろし)より―

 「でもさ、どうしてまさきちは蜂蜜パイを作って売らないのだろう。蜂蜜だけを売るより、蜂蜜パイを売った方が、町の人たちも喜ぶと思うんだけどな」
 「正しい意見ね。その方が利潤も大きくなるし」と小夜子は微笑んで言った。
 「付加価値によるマーケットの掘り返し。この子は起業家になれる」と淳平は言った。   

 「あのね、こんなことをあらためて口にするのは恥ずかしいんだけれど、淳平くんとはこれからも仲のいい友だちでいたいの。今だけじゃなく、もっと歳をとってからも、ずっと。私はカンちゃんのことが好きだけれど、それとは違う意味で、あなたのことを必要としているの。こういうのって勝手な言いぶんだと思う?」淳平にはよくわからなかったが、とにかく首を振った。

 いつもの袋小路から抜け出して、少しだけ希望が見えてきた。すべては沙羅の「蜂蜜パイ」がキーだった。『スプートニクの恋人』よりも、結末がわかりやすいかな。主人公の淳平は36歳なんだけれど、ひょっとしたら村上春樹氏の心はいまだに30代なのかな? ともかく、凄いなあ‥と思う。

  


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