はじめに
もちろん、現在はレニングラードではなく、サンクト・ペテルブルグと言いますが、原文通りレニングラードのままでまとめてみます。
日本との時差は5時間。現地の午前7時、われわれが朝食をとるころは日本はもうお昼の時間だし、12時(正午)昼食の頃は、日本は午後5時だから、ほぼ学校の終業時ということになります。
つまり、いつも5を足していけばいいのですから、比較的わかりやすいと思います。(本来なら6時間の時差ですが、この時期サマータイムを採用とのこと。時差は少ないほど理解しやすいと思います。)
まあ、日本のことなど考える余裕もないかもしれません。ただし、国際電話などする方は日本時間に気をつけて下さいませ。
本来インターネットがフルに使えるなら、時間などまったく気にする必要はないのですが、期待はしていません。
それよりも、お風呂のシャワーが使えるものかどうかの方が気になったりして‥。だれか、ゴルフボールを持っていく人います? 失礼!余談が多くなっています。
ピョートル大帝が建設したロシア帝国の都であり、ヨーロッパに開かれた港町です。
ネヴァ川をちょっと下れば、もうそこはバルト海につながる海です。
沼地に建てられた水と石の都です。まるで、見てきたように書いていますが、ご辛抱下さい。
北緯60度近い、ものすごい北の大都市です。
ちなみに、日本列島は北の北海道が北緯45度、南の九州は北緯30度あたりという南に偏った国ですからね。
日本列島を、北緯40度線(日本では、秋田―岩手を通る線)に沿ってヨーロッパへ移動すると、ポルトガル・スペイン・イタリア・ギリシャの4国にぶつかります。
つまり、南ヨーロッパに当たります。( 最近、教えたばかりです。)
ロシアは、北大西洋海流とか偏西風の影響からほど遠いところですから、冬の寒さは大変厳しいと思います。
ナポレオンが敗れ、ナチスドイツが敗れた「冬将軍」の訪れは、ひとまずわれわれが去った後のことのようですから、ご心配なく。
さてさて、業者からいただくガイドブックにはきっと負けてしまいますが、ひとまず社会科の教師、ここは踏ん張ってみます。
ソビエト連邦の印象の悪さにもかかわらず、われらが愛してやまぬロシア文学やロシア民謡の故郷‥こんなことを書くと、ふんふんとうなづく人はいるだろうか‥の空気を味わいたいと思います。
年齢が分かりそうです。むしろ、池田理代子「オルフェウスの窓」の方がどんな難しい本よりもよかったりしますが、何のことだがおわかりでしょうか?
きっと団長(念のため、本物です)や組長(念のため、私が名づけた愛称です)には、縁のないことと思います!?‥‥これは予断と偏見ですが。
まだ、あります。TV「雷波少年」に登場するブルームオブユースもいいかもしれません。ウオッカをあおり、「スパシーバ」(ありがとう)と言おう。成果は今のところ、これだけですが。3つとも知っている私はいったい何者でしょう?書いたもの勝ちでしかありません‥。
そして、新生ロシア連邦の姿までかいま見ることができるでしょうか。
歴史に興味のある方は、井上靖「おろしや国酔夢タン」をご覧下さい。鎖国の時代(1782年)漂民となった伊勢の商人、大黒屋光太夫が(1791年)都ペテルブルクに向かい、のち夏の離宮で女帝エカテリーナに謁見する場面が載っています。その結果、ラクスマンの船で(1793年)日本に戻ることができました。しかし、終生囚われの身で江戸から一歩も出ることができず、その貴重なる体験が生かされなかったことが当然の時代であった。
在日ロシア連邦大使館ホームページ「National Profile」
ちなみに、ロシア連邦(ロシア)についての基礎知識をまとめてみますと―
人口約 1億4,820万人。面積 1,707万平方q(日本の約54.7倍) 民族はロシア人など100以上の民族から構成されている。国土面積世界1を誇るロシア連邦は、東西約9,000q、南北最大幅約4,000qに渡り、北は北極海、南は中国、モンゴルなどアジアの国に接しています。
4世紀ごろから東スラブ族が入ってきたのを始まりとして、モンゴル軍の進入、独立、シベリアへの進出を達成し、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦が成立。1991年の「ソ連」解体を迎え、従来の社会主義体制から市場経済体制へ移行しました。
首都モスクワ。立法機関は国家会議と連邦会議の二院制の連邦会議。大統領はボリス・N・エリツィン。新首相はプーチン。公用語はロシア語、他に各民族語。宗教はロシア正教、カトリック教、ユダヤ教、イスラム教、仏教など。
NHK取材班「レニングラード物語」(日本放送出版協会)その1
以下、昭和58年6月20日発行という古い本から要約しました。
ペテロパブロフスク要塞
ペテロパブロフスク要塞はレニングラードの礎石である。1703年5月の起工というから280年を閲(ケミ)するわけだ。街の建設の初めに城砦というのは古来からの常識だが、この町の城砦は特にスウェーデンを睨(ニラ)んでのものであり、また、バルト海交易の橋頭堡としても必要だったのである。
17世紀、バルト海の覇権をめぐり沿岸諸国は対立していたが、スウェーデンはバルト海諸国から関税を徴収し他を圧倒していた。しかし、17世紀末、バルト海通商に利害をもつオランダ、イギリスの圧力、そしてロシアの台頭でスウェーデンは後退を余儀なくされ、1709年、ポルタヴァ会戦でピョートルのロシアに破れると、バルト海の制海権はロシアがにぎることになった。城砦はバルト海経営の拠点、ロシアの楯として建設されたのであった。
冬宮
冬宮は、ロマノフ王朝の住居で建設に8年を要し、王朝が集めた美術品を納めるエルミタージュ美術館ともなっている。美術品の数は、その後のものを含めると、270万点を超え、エルミタージュ美術館は年に350万人の参観者を迎える。
冬宮の建設は1754年に始まった。それより100 年ほど前にベルサイユ宮殿が上棟し、50年を費やして完成している。ウイーンのシェーンブルン宮殿もできあがったばかりである。ベルサイユは太陽王ルイ14世、シェーンブルンはマリア・テレジャ女帝が住んだ。冬宮にはエカテリーナ女帝が君臨した。歴史の名をとどめたこれらの君主は、当然のことながら“征服”で後世に知られたのである。
冬宮前広場は、ロシア史のさまざまな出来事のものいわぬ証人である。ここでは、帝政時代、華やかなパレードが繰り広げられた。1905年、いわゆる「血の日曜日事件」のデモが行われたのもここだし、1917年の「10月革命」の舞台になったのもここだ。
冬宮前広場の中央に対ナポレオン戦争勝利記念塔があり、冬宮と向かい合って旧参謀本部のアーチが立つ。20世紀初め世界に冠たる帝政陸軍の中枢がここにあった。この建物の正面の長さは半`にも及び、富と勢威をきわめたロマノフ王朝の名残をとどめている。
ネフスキー大通り
巨躯のソビエト人男女にはさまれてネフスキー大通りを下ると、右手にクトゾフ像―対ナポレオン戦争指揮官―を通りすぎ、左に芸術広場を見た。高さ4bのプーシキン像が広場中央に立つ。背後に国立博物館を従え、前にレニングラード交響楽団ビルがある。
プーシキンはロシア暦(旧暦)1799年5月26日(新暦6月8日)に生まれた、37歳のとき決闘で倒れた。母系にエチオピアの血が混じっているといわれ、容貌の特異さばかりではなく、奔放な創作、未来予見の鋭敏さ、そして抒情で今もなお世界の人々から愛されている。
ネフスキー大通り、4.5`続く。両側には商店、レストラン、劇場のほか、歴史的な記念建築物も多い。
ネフスキー大通りのつき当たりにあるネフスキー修道院を歩くと、多くの芸術家の眠る墓がある。作家のドストエフスキー、作曲家のチャイコフスキー、グリンカ、ムソルグスキー、ボロディンなど。ロシア革命は革命によって得たもの、失ったものがあるが、現在のソビエト・ロシアは少なくとも革命とその後の為政の粗暴さ―変革は野蛮なダイナミズムを必要とするが―で芸術家の繊細さ、創造性を無造作に傷つけたような気がする。
デカプリスト広場
青銅の騎士。デカプリスト広場のピョートル1世像。台座には、「ピョートル1世にエカテリーナ2世より」との銘が彫られている。
ロシア革命の萌芽はすでに1825年、「デカプリストの乱」に見いだされる。デカプリストという名はロシア語の「12月」に由来しているが、蜂起した若い貴族たちは対ナポレオン戦争後、西欧に触れブルジョア民主主義の胎動に刺激され、帝政と農奴制に反対して立ち上がった。しかし、この蜂起は失敗し、579名が死刑または流刑に処せられた。デカプリスト広場がその処刑の場だった。
フォンターンカ運河
アニーチコフ橋の下を流れるのが、フォンターンカ運河。レニングラードを語るとき、運河を抜きにするわけにはいかない。ネフスキー大通りを歩いていても、モーイカ、グリボエードフ、フォンターンカ運河などが次々に現れる。運河が縦横に入り組んで街を流れているのだ。
この水の豊かさが、“石の都”の堅さをほぐし、心なごむものにしてくれる。“石の都”レニングラードは“水の都”でもある。