読書ノート 1999-2

サンクト・ペテルブルク、歴史を訪ねる旅


  1. はじめに

  2. ロシア連邦

  3. NHK取材班「レニングラード物語」その1

  4. NHK取材班「レニングラード物語」その2

  5. 小川和男「ソ連解体後」

  6. ドストエフスキー「貧しき人びと」




はじめに

 もちろん、現在はレニングラードではなく、サンクト・ペテルブルグと言いますが、原文通りレニングラードのままでまとめてみます。

 日本との時差は5時間。現地の午前7時、われわれが朝食をとるころは日本はもうお昼の時間だし、12時(正午)昼食の頃は、日本は午後5時だから、ほぼ学校の終業時ということになります。 つまり、いつも5を足していけばいいのですから、比較的わかりやすいと思います。(本来なら6時間の時差ですが、この時期サマータイムを採用とのこと。時差は少ないほど理解しやすいと思います。) まあ、日本のことなど考える余裕もないかもしれません。ただし、国際電話などする方は日本時間に気をつけて下さいませ。 本来インターネットがフルに使えるなら、時間などまったく気にする必要はないのですが、期待はしていません。 それよりも、お風呂のシャワーが使えるものかどうかの方が気になったりして‥。だれか、ゴルフボールを持っていく人います? 失礼!余談が多くなっています。  

 ピョートル大帝が建設したロシア帝国の都であり、ヨーロッパに開かれた港町です。 ネヴァ川をちょっと下れば、もうそこはバルト海につながる海です。 沼地に建てられた水と石の都です。まるで、見てきたように書いていますが、ご辛抱下さい。

 北緯60度近い、ものすごい北の大都市です。 ちなみに、日本列島は北の北海道が北緯45度、南の九州は北緯30度あたりという南に偏った国ですからね。 日本列島を、北緯40度線(日本では、秋田―岩手を通る線)に沿ってヨーロッパへ移動すると、ポルトガル・スペイン・イタリア・ギリシャの4国にぶつかります。 つまり、南ヨーロッパに当たります。( 最近、教えたばかりです。) ロシアは、北大西洋海流とか偏西風の影響からほど遠いところですから、冬の寒さは大変厳しいと思います。 ナポレオンが敗れ、ナチスドイツが敗れた「冬将軍」の訪れは、ひとまずわれわれが去った後のことのようですから、ご心配なく。

 さてさて、業者からいただくガイドブックにはきっと負けてしまいますが、ひとまず社会科の教師、ここは踏ん張ってみます。 ソビエト連邦の印象の悪さにもかかわらず、われらが愛してやまぬロシア文学やロシア民謡の故郷‥こんなことを書くと、ふんふんとうなづく人はいるだろうか‥の空気を味わいたいと思います。 年齢が分かりそうです。むしろ、池田理代子「オルフェウスの窓」の方がどんな難しい本よりもよかったりしますが、何のことだがおわかりでしょうか? きっと団長(念のため、本物です)や組長(念のため、私が名づけた愛称です)には、縁のないことと思います!?‥‥これは予断と偏見ですが。 まだ、あります。TV「雷波少年」に登場するブルームオブユースもいいかもしれません。ウオッカをあおり、「スパシーバ」(ありがとう)と言おう。成果は今のところ、これだけですが。3つとも知っている私はいったい何者でしょう?書いたもの勝ちでしかありません‥。 そして、新生ロシア連邦の姿までかいま見ることができるでしょうか。

 歴史に興味のある方は、井上靖「おろしや国酔夢タン」をご覧下さい。鎖国の時代(1782年)漂民となった伊勢の商人、大黒屋光太夫が(1791年)都ペテルブルクに向かい、のち夏の離宮で女帝エカテリーナに謁見する場面が載っています。その結果、ラクスマンの船で(1793年)日本に戻ることができました。しかし、終生囚われの身で江戸から一歩も出ることができず、その貴重なる体験が生かされなかったことが当然の時代であった。



在日ロシア連邦大使館ホームページ「National Profile」


ちなみに、ロシア連邦(ロシア)についての基礎知識をまとめてみますと―

 人口約 1億4,820万人。面積 1,707万平方q(日本の約54.7倍) 民族はロシア人など100以上の民族から構成されている。国土面積世界1を誇るロシア連邦は、東西約9,000q、南北最大幅約4,000qに渡り、北は北極海、南は中国、モンゴルなどアジアの国に接しています。 4世紀ごろから東スラブ族が入ってきたのを始まりとして、モンゴル軍の進入、独立、シベリアへの進出を達成し、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦が成立。1991年の「ソ連」解体を迎え、従来の社会主義体制から市場経済体制へ移行しました。 

 首都モスクワ。立法機関は国家会議と連邦会議の二院制の連邦会議。大統領はボリス・N・エリツィン。新首相はプーチン。公用語はロシア語、他に各民族語。宗教はロシア正教、カトリック教、ユダヤ教、イスラム教、仏教など。 




NHK取材班「レニングラード物語」(日本放送出版協会)その1


以下、昭和58年6月20日発行という古い本から要約しました。


ペテロパブロフスク要塞

 ペテロパブロフスク要塞はレニングラードの礎石である。1703年5月の起工というから280年を閲(ケミ)するわけだ。街の建設の初めに城砦というのは古来からの常識だが、この町の城砦は特にスウェーデンを睨(ニラ)んでのものであり、また、バルト海交易の橋頭堡としても必要だったのである。

 17世紀、バルト海の覇権をめぐり沿岸諸国は対立していたが、スウェーデンはバルト海諸国から関税を徴収し他を圧倒していた。しかし、17世紀末、バルト海通商に利害をもつオランダ、イギリスの圧力、そしてロシアの台頭でスウェーデンは後退を余儀なくされ、1709年、ポルタヴァ会戦でピョートルのロシアに破れると、バルト海の制海権はロシアがにぎることになった。城砦はバルト海経営の拠点、ロシアの楯として建設されたのであった。


冬宮

 冬宮は、ロマノフ王朝の住居で建設に8年を要し、王朝が集めた美術品を納めるエルミタージュ美術館ともなっている。美術品の数は、その後のものを含めると、270万点を超え、エルミタージュ美術館は年に350万人の参観者を迎える。

 冬宮の建設は1754年に始まった。それより100 年ほど前にベルサイユ宮殿が上棟し、50年を費やして完成している。ウイーンのシェーンブルン宮殿もできあがったばかりである。ベルサイユは太陽王ルイ14世、シェーンブルンはマリア・テレジャ女帝が住んだ。冬宮にはエカテリーナ女帝が君臨した。歴史の名をとどめたこれらの君主は、当然のことながら“征服”で後世に知られたのである。

 冬宮前広場は、ロシア史のさまざまな出来事のものいわぬ証人である。ここでは、帝政時代、華やかなパレードが繰り広げられた。1905年、いわゆる「血の日曜日事件」のデモが行われたのもここだし、1917年の「10月革命」の舞台になったのもここだ。

 冬宮前広場の中央に対ナポレオン戦争勝利記念塔があり、冬宮と向かい合って旧参謀本部のアーチが立つ。20世紀初め世界に冠たる帝政陸軍の中枢がここにあった。この建物の正面の長さは半`にも及び、富と勢威をきわめたロマノフ王朝の名残をとどめている。


ネフスキー大通り

 巨躯のソビエト人男女にはさまれてネフスキー大通りを下ると、右手にクトゾフ像―対ナポレオン戦争指揮官―を通りすぎ、左に芸術広場を見た。高さ4bのプーシキン像が広場中央に立つ。背後に国立博物館を従え、前にレニングラード交響楽団ビルがある。

 プーシキンはロシア暦(旧暦)1799年5月26日(新暦6月8日)に生まれた、37歳のとき決闘で倒れた。母系にエチオピアの血が混じっているといわれ、容貌の特異さばかりではなく、奔放な創作、未来予見の鋭敏さ、そして抒情で今もなお世界の人々から愛されている。

 ネフスキー大通り、4.5`続く。両側には商店、レストラン、劇場のほか、歴史的な記念建築物も多い。

 ネフスキー大通りのつき当たりにあるネフスキー修道院を歩くと、多くの芸術家の眠る墓がある。作家のドストエフスキー、作曲家のチャイコフスキー、グリンカ、ムソルグスキー、ボロディンなど。ロシア革命は革命によって得たもの、失ったものがあるが、現在のソビエト・ロシアは少なくとも革命とその後の為政の粗暴さ―変革は野蛮なダイナミズムを必要とするが―で芸術家の繊細さ、創造性を無造作に傷つけたような気がする。


デカプリスト広場

 青銅の騎士。デカプリスト広場のピョートル1世像。台座には、「ピョートル1世にエカテリーナ2世より」との銘が彫られている。

 ロシア革命の萌芽はすでに1825年、「デカプリストの乱」に見いだされる。デカプリストという名はロシア語の「12月」に由来しているが、蜂起した若い貴族たちは対ナポレオン戦争後、西欧に触れブルジョア民主主義の胎動に刺激され、帝政と農奴制に反対して立ち上がった。しかし、この蜂起は失敗し、579名が死刑または流刑に処せられた。デカプリスト広場がその処刑の場だった。


フォンターンカ運河

 アニーチコフ橋の下を流れるのが、フォンターンカ運河。レニングラードを語るとき、運河を抜きにするわけにはいかない。ネフスキー大通りを歩いていても、モーイカ、グリボエードフ、フォンターンカ運河などが次々に現れる。運河が縦横に入り組んで街を流れているのだ。

 この水の豊かさが、“石の都”の堅さをほぐし、心なごむものにしてくれる。“石の都”レニングラードは“水の都”でもある。




NHK取材班「レニングラード物語」(日本放送出版協会)その2



 レニングラードは、正確にいえば北緯59度57分、東経30度17分に位置している。緯度の上では、アラスカの南部やグリーンランド南端と同じ位置にあり、北極圏に近いといえる。世界の大都市のなかで、これほど北方にあるのは、オスロとヘルシンキぐらいのものであろう。


 新しい都は大帝ピョートルと同じ名前の聖人ペテロにちなんでサンクト・ペテルブルフ(ブルフはオランダ語で都市の意)、短く呼んでペテルブルフと名づけられた。‥‥ピョートル大帝の死後、ドイツ語風にサンクト・ペテルブルグと変えられたのである。
 そして、1914年8月1日、第1次世界大戦に参加したドイツがロシアに宣戦布告を行うと、「ペテルブルグ」はドイツ語かぶれだという理由で、ロシア風にペテログラードと改められたのである。
 1924年1月21日、レーニンが死ぬと、その5日後の26日、ペテログラードはレーニンの指導した「10月革命」発祥の地として、レニングラードと改められたのである。


 ヴァシーリィ島を見学して、私たちが一番興味を魅かれたのは、「クンストカーメラ」という名の自然科学博物館だった。‥‥私たちが次に移ろうとしても、この大柄な堂々たる骨格の女性はそれを許さない。ちゃんと聞きなさいと言った調子で袖口をひっぱられると、軽量級の悲しさ、体がよろけてしまう。
 「こちらにございますのが、身長2m27cmもあるフランス人の大男の骸骨です。ピョートル大帝は、この大男がまだ生きているとき、パリの見世物小屋で見かけられ、いたく興味をもちペテルブルグに連れてきました。そして、フィンランドから同じように連れてきた大女と結婚させ、立派な体格をもつ近衛兵をつくろうとしました。しかし、大男は死に、こうして陳列されることになったのです。男の名はブルジョアといいますが、ブルジョアが倒された社会主義革命後も、撤去されることもなく、陳列されています。」


 レニングラードの国営テレビ局の試写室で、レニングラードの都市計画についての30分のフィルム番組を見た。ピョートルのペテルブルグ建設からレニングラード郊外に発達した現在の国営アパート群まで、いかに整然たる都市計画にのっとって、この街が設計されてきたかを番組は語っている。
 ところが、この番組に突然東京が写る。嫌な予感がしたが、案の定、例のラッシュの尻押し、渋滞する高速道路、高さも様式もバラバラな建物―それに、ナレーションが「東京のような無秩序な発展を避けるために、レニングラードの都市計画当局は日夜奮闘している」とかぶるのには苦笑させられた。


 アメリカ大統領として初めてソビエトを訪問したニクソンは、レニングラード空港で簡単な歓迎の儀式をうけるとそのまま、市郊外のピスカリョーフ共同墓地に向かった。レニングラード包囲戦で亡くなった多数の市民の霊に花輪を捧げた大統領は、次のような記帳をしたためた。

 「ターニャとすべての英雄的なレニングラード市民に」

 ターニャとは、レニングラード包囲戦の中で亡くなった無数の犠牲者の一人、ターニャ・サヴィチェヴァのことである。当時彼女は11歳の少女だった。‥‥レニングラード歴史博物館には、包囲下の市民生活やパルチザンのドイツとの戦闘、バルチック艦隊の活躍といった、包囲戦当時の生々しい記録が大量に展示されているが、なかでも訪れる人々の胸を打つのが、ターニャのノートである。

 1941年12月28日、朝の12時30分、ジェーシャが死んだ。 
 1942年1月25日午後3時、パーブシカ(おばあちゃん)が死んだ。
 1942年3月17日午前5時、レーカ(姉)が死んだ。
 1942年4月13日午前2時、ヴァーシャ伯父さんが死んだ。
 1942年5月10日午後4時、ジャージャ・レーシャ(レーシャおじさん)が死んだ。
 1942年5月13日午前7時30分、ママが死んだ。
 サヴィチェヴァ一家が死んだ。 
 みんな死んだ。
 ひとりターニャだけが残った。

 そのターニャも、‥ゴーリキー近郊の孤児院に疎開させられ、そこで1943年夏死亡した。



小川和男「ソ連解体後」(岩波新書)



復古主義の台頭

 自信を喪失したロシア人たちは今、生来の夢想癖を強める一方、懐古趣味にのめり込み、アナクロニズムの傾向さえ出ている。 ロシアでは、5月1日の「メーデー」と11月7日の「ロシア革命記念日」を国民の祭日からはずし、ロシア正教のクリスマスである1月7日を正式に休日とした。

 ロシア革命後の70年間を「偽善」の一語で片づけたエリツィン大統領は、パリ訪問の際、ロマノフ王朝の末裔に会い、正当なロシア文化を固守してくれたとして最大級の謝辞を呈した。 帝政時代の懐旧が日増しに強まり、レニングラードはサンクト・ペテルブルグに、ウラルの重工業都市スペルドロフスクはエカチェリンブルグに、カフカーズ山脈北麓のオルジョニキゼはウラジカフカーズに戻った。 モスクワでは、通りの名が毎日のように革命前の旧名に替えられ、タクシーの運転手たちでさえ困惑している。

サンクト・ペテルブルグ

 サンクト・ペテルブルグの都市美はヨーロッパ最高という評価がある。少なくとも、パリやロンドンに劣ることはない。 そのサンクト・ペテルブルグが今、レトロのなかに輝いている。最大の繁華街ネフスキー大通りは約4,5キロの広い通りで、両側には高さを一定に統一した瀟洒な建物が並び、世界でもっとも美しい通りの一つといわれている。 しかも、商店街であるということもあって、いつも殷賑(インシン)をきわめている。

 ネフスキー大通りの周辺は、社会主義の時代に新しい建物の建造を厳しく禁じてきた。 このためもあり、19世紀に文豪ドストエフスキーが数々の傑作の中でえがいてみせたままの景観が残っている。 最近では、夜の帳(トバリ)が降りると、昔ながらの街灯に淡い灯がともり、自分が21世紀に近い時代にこの大都会に身をおいているとはとても思えないのである。



ドストエフスキー「貧しき人びと」



1846年、ペテルブルグで書いたこの処女作で、絶賛を浴びる。ただし、この後、ドストエフスキーは1949年に革命思想家のサークルに参加して逮捕され、ペテロパブロフスク要塞に収容され、4年間のシベリア流刑を味わうことになる。一度は死刑を宣告され、皇帝のお情けで減刑されるといった茶番劇に巻き込まれたわけだ。「大逆事件」と同じだ。まったく迷惑な話である。

ワルワーラ・ドブロショーワ「9月3日 きょうはさわやかな、よく晴れわたった、輝かしい朝で、当地の秋としては珍しいことでございます。あたくしは生き生きとした気持ちで、嬉しく朝を迎えました。ああ、いよいよ当地も秋になりましたね。」
マカール・ジェーヴシキン「9月5日 何とか気分をさっぱりさせようと、家を出て、フォンタンカを散歩してきました。とても薄暗い、じめじめした夕暮れでした。5時過ぎにはもう暗くなるんです。」


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