「新茶より 5月のみどり みどり色」 ‥ ご存じ、「ちびまるこちゃん」に登場するたまちゃんの戯れの一句である。なぜか、すっかりこの句が気に入っている。
毎日のように長居公園通りを車で帰るとき、阪和線の開かずの踏切を待つ間窓からプラタナスの若葉のみどり色をみて感激してしまう。この新緑の時期のみどり色がとても気に入っている。
寒さの4、5月を過ぎてようやく本物の春が来た。まもなく一泊移住だ。人工的ではない、本物の自然の中でどんな色に出会えるのかを楽しみにしている。
中学校を訪れる卒業生の姿が少し減ってきて、半分さびしく思いながら、またホッとしている。それぞれいそがしくなったものと喜ぶことにしよう。
わずか214人の子どもたちが214通りの進路を選んでしまうと、結果として、ずいぶん遠いところへたった一人で通う羽目にもなってしまう。もう5月ともなると友だちもできて、それぞれの高校風の楽しさを身につけながら、「いい高校だから、後輩にも来て欲しい。」と言う。「総合学科」の良さを説明して欲しいと思うが、「桜並木を通っていくのがいい。」と言う。なるほど、これもいいね。制服とか、勉強とか、クラブ活動とかの様子もいいけれど、どこか心が豊かになるような自校の宣伝文句というのは嬉しいね。
全市的に余り知られているわけでもない「墨江丘中学校」、きみ達なら、どんな風に紹介してくれるものか‥ふと、そんなことを考えてみた。
この時期に、毎年発表されて、我ら小市民を悲しくさせるのが、高額納税者番付である。ダウンタウンの松本仁志と浜田雅功が、俳優・タレント部門でついに三田佳子を抜いて1、2位を独占。ちなみに納税額は2人とも約2億5千万円である。Y先生によれば、本当の収入はこのほぼ 2.8倍とみて差し支えないとのことだ。 人気絶頂。個人の才覚だけで運をつかんだことは素晴らしいことだ。
少し前に、さるルートから借りて、松ちゃんの「遺書」と「松本」、浜ちゃんの「読め!」を読んだ。浜ちゃんの生真面目さより、松ちゃんの味のあるボケ具合の方がなぜか楽しい。
春の夜長のつれづれなるままの読書とやらで、また明日も職場で大あくびをしてしまいそうだ。
なぜだか自分でもわからないけれど、唯一心待ちにして必ずみるTV番組が「イグアナの娘」である。このときばかりは、居間のTVのチャンネル権は自分のものである。娘はしかたなく自分の部屋で「ヘイ! ヘイ! ヘイ!」なるものをみて、ガハハと笑っている。原作者が萩尾望都さん。「トーマの心臓」「ポーの一族」「11月のギムナジウム」をずっとむかし、読んだことがある。
いつからか、主人公の顔がイグアナに見えてきてしかたない。鏡に写る顔を見て涙を流すな!本物のイグアナは堂々として誇り高い存在なのだから。
これを機に、ダーウィンの進化論のふるさと、イグアナの島であるガラパゴス諸島(エクアドル)を地図帳で見つけておいてほしいと勝手に思っている。
「面白い」話がある。ニューヨークの話である。体重が450s!‥ 太りすぎて、心臓病などの治療が必要と診断されたヘブランコさん。余りにも大きくなり過ぎたためほとんど立ち上がれず、家からも出られず‥‥。ついには救助隊が壁に穴をあけ、フォークリフトで救急車まで運んだということだ。
肥満で悩める者どもよ、まだまだ底は深い。世の中には水を飲んだだけで太るという体質の者がいるという。また、やせの大食いという言葉もある。どちらも悩みの種だが、誰もがそれなりに自分の体型についてはひとまず納得しているそうだ。だから、他人から体型についてあれこれ言われるとひどく傷ついてしまう。冗談めいていても、本人には全く笑えない話である。ほっといてくれという類(タグイ)の話である。
成長盛りの君たちはほとんど心配する必要はなさそうだ。腹が減ったら思いきり食べればいい。むしろ、心の悩みの方が気にかかる昨今である。
お客さんがあると、ひとまず礼儀として家の掃除をする。玄関を掃き清め、廊下を拭き、積み重ね放しのがらくたをひと思いに廃棄処分にする。だが、何と言っても、一番気になるのはトイレである。埃をかぶっていたり、便座が汚かったり、はては便器にウンチがこびり着いていたりすると最悪であるからだ。「臭くて、汚いところ」だから、余計にきれいにしておきたいものである。ちなみに、農耕民族=草食動物のウンチは、狩猟民族=肉食動物のウンチに比べてすごく臭いと本で読んだことがある。形まで違うそうだが、お目にかかったことはない。だからこそ、だからこそ、清潔でなければならない。
トイレ掃除にあたっている4組の諸君には、意識しておいて欲しいと思う。学校が荒れてくると、決まって、トイレが汚くなる。ドアが破られ、落書きでいっぱいになる。せっかく手をかけて掃除をしたきみ達こそ、トイレの番人であって当然である。
ご存じ、SMAPの森クンがグループから独立して、オートレーサーになるそうだ。最近やっと名前を覚えたばかりなのに‥。
おおいにけっこうである。人気とか、お金とかすべてを捨てて、新しい夢を追っかけるのは若者の特権であると思う。ちまたでは、勝手にオートレーサーの免許(そんなのあるのかな?)を取ったのが事務所にばれて追い出されたとか、SMAPの一員であるが故にファンがオートレース場におしかけて来て、迷惑をかけるからとかいうことが、独立の理由だともささやかれているそうだ。しかし、何であるにせよ、余計な他人の詮索などおかまいなしでがんばって欲しい‥。
いや、がんばらなくてもいい!このあと成功するとか失敗するとかは関係ない。夢を追い、ひたすら突っ走るところに、「失敗」という言葉は似つかわしくないから。自分の思い通りに生きたらいい。うらやましい限りだ。年齢(トシ)をとると、自由でなくなるのだ。がんばらなければならないのだから。
ラモスが、今や15連敗中のパープルサンガ京都に電撃移籍。ヴェルディ川崎の新監督にレオン氏が決定したあとのことだ。レオンとは合わない。引退を余儀なくされることよりも、現役に固執したためと言っていい。きっとぼろぼろになるまで、自分が納得できるまで続けるに違いない。移籍は、プロの世界では当たり前。彼らしくていい‥。
今でこそ、彼の名を知らない人はいないだろう。数々の「地獄」をのりこえ、ブラジル代表の夢を捨て、日本国籍を選んだ。彼以上に日本代表としての誇りを持った者はいなかったと思う。プレー中の、鬼のようなこわい顔をまだまだ見ていたい‥‥。なお、大好きだったエミリオ監督(セレッソ大阪)がついに引退を余儀なくされた。最近いい試合が見られず、ボクも沈んでいた。
プロの世界はいつも厳しい。教師もそうでなくてはならない。またまた勝手だがきみ達も「プロの生徒」であって欲しいなんて思っている。
毎日のことである。車の窓からごみを捨てたり、タバコそれも火のついたままのものを捨てているのに出くわす。たいていは灰皿を汚したくないからといった理由からだ。思わず、石を投げたくなる。ぶつけてやろうかとも思う。でも、思うだけで何もしない‥。
シンガポールなら、罰金だけで済むかどうか。罰則があろうとなかろうと、少しの良識さえあればわかると思うはずだが。こればかりは、世間の大人の心の貧しさと言うしかない。
でも、他人事ではない。建物の2階とか3階とかの窓からごみを落とすのも、下を通る者に対して罵声を浴びせるのも同様である。悪いという感覚がないから、余計にひどい。地球規模の環境問題なんて言う前に、身の回りのことから始めていきたいね。何かいい話ないかな。
「ある村に昔どこからともなく、見すぼらしい姿の旅僧が現れ、泉のほとりで大根を洗っていた女に水を一杯と所望した。女は彼を卑しめ、恵まなかったところ、持っていた錫杖で泉の傍らをついた。とたんに今まで噴き出ていた水がピタリ止まった。別のきわめて水の乏しいある村では、同じようなやつれ旅僧に、惜しげもなく水をいただかせた。すると、そのついた錫杖の所から、こんこんと清水がわき、以後すこぶる水に恵まれる村となった。この旅僧は、実は弘法大師だったのだーとの話である。」
こういう説話は日本のあちらこちらにたくさん残っている。いい行いをした者にはご利益(リヤク)を、悪い行いをした者には罰を与えるという因果応報(インガオウホウ)の話である。
しかし、水を飲みたければ、人に頼らず、初めから泉の水を飲めばいいのにと思う。ちょっと嫌な態度を見せたからといって、いじわるをしなくてもいいのにと思う。水を一杯!と求めて、それが果たせなければ、すごすごとその場を去っていくのもいいのじゃないか。ちょっぴり悲しそうな顔を見せるとしても。自分を卑しめようとする者まで抱(カカ)え込んでしまうだけの器量(心の広さ)なるもの‥があると思う。
テストの季節。「暗記物」の社会科の場合、わかっているだろうなと思いながら×をつけざるをえないパターンに何度も出くわす。毎度のことである。漢字のちょっとしたミス、記号で答えるところを語句で書いてしまったという致命的なミスなどが付き物といっていい。
「失敗は成功の母」とはうまくいったもので、小さなミスであればあるほど、くやしくて、2度と間違えないもの、極端にいえば生涯の財産にもなることがある。また、「過ちを改めるに、はばかる(=恐れる)ことなかれ」ともいう。要は、ミスから立ち直ろうとする姿勢にある。自分を高めようとする、頭のやわらかさが今ほど必要なときはないと言っていい。その道の達人でさえ、謙虚に人の意見をどんどん吸収していくことで新境地を開くことがある。
恥ずかしながら、授業中に何度かミスをしてあとで訂正することがあった。わかっていながらミスをする。かっこうわるいが、気がつけば必ず訂正することにしている。ボケ症状ではないと思っている。「のむのむも筆の誤り」ということにしておこう。
アメリカ大リーグ、ボルチモア・オリオールズのリプケン選手が2,216試合連続出場を果たした。元広島カープの衣笠氏の記録を破り、世界新記録を達成した。
同じ日、こちらは、オリックスのぬいぐるみネッピー役という裏方さんの島野さんの話。16年かけて1,000試合連続出場の記録を達成した。元巨人軍のドラフト1位だったというから、その転身には苦渋に充ちたものがあったと推測できる。地味ではあるが、ネッピーを見に来る子ども達のためにがんばるという彼の言葉がすてきだ。
しかし、しかしだ。「ぼくのパパだって、一日も休まず、仕事にいってるよ。」と言った、観客席の少年の言葉だってすばらしいと思う。“誇りっていうのはそういうものだ。”鉄人リプケンに負けない仕事を着実に、さりげなくこなしている大人は身近なところにいっぱいいる。
毎年、忘れたころに父の日が来て、子ども達からのプレゼントを受け取る。わが家では、完全に母親のはからいである。今年は、用箋鋏(ハサミ)A4版と0,2oのサインペンである。希望に合わせて、できあいのものをひとまず自分の小遣いで買って来てくれる。ありがたや、ありがたや、である。母の日なるものは、できあいの品物を贈るだけでなく、「お手伝い券」なるものを発行して、何かと手伝っている。ちょっと差が付いているが仕方ない。何といっても母親である。わが家では、父親はごろごろしてばかりで、たまに一緒にJリーグの試合を観に行ったり、パソコンでゲームをしたりする程度のダメ親父である。
血を分けた子どもでも、根本的には他人だと思っている。だから、何もかも包み込むような母親の手を放れて、自分の生き方なんていうものを考え出したときには自分の出番かな、なんて思っている。自分の意見を持ち、それを明確に表明できる強さが欲しい。個を確立して欲しいと思う。そんなとき、あくまでも理性的に「おまえはアホか!」と言ってやりたい。だてに長く生きているわけではないから。西欧型の「父性原理」なるものの出番を楽しみにして、‥‥今日もごろごろ寝てばかりいる。
毎年、夏が来る。「戦争」の夏が来る。せめて、一年のうち、このときだけでも「ヒロシマ」を考えてみたい。そう自分に言い聞かせて来たつもりである。
こんな暑さの中で原子爆弾が落とされた。暑さを通り過ぎた愚かさが、広島の町をおそったのだ。リトルボーイと名付けられたその小さな爆弾の模型を目にしたとき、ボクは言葉を失った。わずか1s程度の爆弾で、20万市民が死に続けた。「戦争」とはいえひたすら無念である。自分にとっての「ヒロシマ」体験は小さいが、人間の愚かさを超えたものを追求したいと思う。
やがて7月7日、七夕の日が来る。日中戦争のきっかけとなる廬溝橋事件の起こった日でもあることを知っている人は少ない。日本の侵略によって、アジアの同胞に多くの被害をもたらしたことを反省する歴史感覚が問われている。
8月6日午前8時、いつものように朝の集会があった。校長先生は、朝方まで作業をしていた生徒のことを知っていたから、集会をはやく終えたとのこと。
その校長先生の「優しさ」のおかげで、教室に戻った高木さんは8時15分から始まる原子爆弾のひどい被害を受けたとはいえ、生命が助かったという話がまず印象に残った。軍国教育の厳しい時代にあっても、人間としてのさりげない優しさが校長先生の中にあり、それを淡々と語ってくれる高木さんがまた、とてもすばらしい。
「お化けのようになった」顔の高木さんを、家族の反対にもかかわらず、奥さんにした旦那さんもすてきだと思った。それがまた、大変なことでも何でもなく、当たり前のこととして考えたような気がする。いい話だ。
戦争という極限の状態にあったとしても、変わらぬ人間としての優しさがある。人間の英知を信じる。世界が核廃絶に向かって一歩でも近づくよう、自分にできることを君たちとともに考えていきたいとつくづく思う。