読書ノート 2020

 
あきない世傳 金と銀シリーズ(高田郁、ハルキ文庫)
 「七 碧流篇」
 「八 瀑布篇」
 「九 源泉篇」

 

 「僕と妻の1778話」 (眉村卓、集英社文庫)
 「宇喜多の捨て嫁」 (木下昌輝、文春文庫)
 「明智光秀」 (早乙女貢、文春文庫)
 「草花たちの静かな誓い」(宮本輝、集英社文庫)
 「熱源」(抄)(川越宗一、『オール讀物』直木賞発表号、文芸春秋)
 「熱源」(川越宗一、文芸春秋)
 「密やかな結晶」(小川洋子、講談社文庫)
 「ことり」(小川洋子、朝日文庫)
 「博士の愛した数式」(小川洋子、新潮文庫)
 「境遇」 (湊かなえ、双葉文庫)
 「望郷」 (湊かなえ、文春文庫)
 「恋歌」(朝井まかて、講談社文庫)
 「福袋」(朝井まかて、講談社文庫)
 「父からの手紙」(小杉健治、光文社文庫)


風烈廻り与力 青柳剣一郎シリーズ(小杉健治、祥伝社文庫)
 「悲恋歌 50」
 「札差殺し1」
 「火盗殺し2」
 「八丁堀殺し3」
 「刺客殺し4」
 「七福神殺し5」
 「夜烏殺し6」
 「女形殺し7」
 「目付殺し8」
 「闇太夫 9」
 「待伏せ 10」
 「まやかし 11」
 「子隠し舟 12」
 「追われ者 13」
 「詫び状 14」
 「向島心中 15」
 「袈裟斬り 16」
 「仇返し 17」
 「春嵐1 18」
 「春嵐2 19」
 「夏炎 20」
 「秋雷 21」
 「冬波 22」
 「朱刃 23」
 「白牙 24」
 「黒猿 25」
 「青不動 26」
 「花さがし 27」
 「人待ち月 28」
 「まよい雪 29」
 「真の雨 上 30」
 「真の雨 下 31」
 「善の焔 32」
 「美の翳 33」
 「砂の守り 34」
 「破暁の道(上) 35」
 「破暁の道(下) 36」
 




 「天地に燦たり」 (川越宗一、文春文庫)
 「ラプラスの魔女」 (東野圭吾、角川文庫)
 「たこ焼きの岸本」 (蓮見恭子、ハルキ文庫)
 「あと少しもう少し」 (瀬尾まい子、新潮文庫)
 「そして、バトンは渡された」 (瀬尾まい子、文春文庫)


 「ジョン万次郎漂流記」(井伏鱒二、偕成社文庫)
 「椿と花水木 万次郎の生涯(上下)」(津本陽、幻冬舎時代小説文庫)

 「漂巽紀略(ひょうせんきりゃく) 全現代語訳」(ジョン万次郎述 河田小龍記、講談社学術文庫)
 「ジョン万次郎の英会話」(乾隆、Jリサーチ出版)
 「中浜万次郎の生涯」(中濱明、冨山房)
 「中濱万次郎−「アメリカ」を初めて伝えた日本人ー」(中濱博、冨山房インターナショナル)
 「ジョン万次郎」(中濱京、冨山房インターナショナル)

 「ジョン・マン5立志編」(山本一力、講談社文庫)
 「カズサビーチ」(山本一力、集英社文庫)
 「龍馬奔る 土佐の勇」(山本一力、ハルキ文庫)
 「桑港特急」(山本一力、文春文庫)

 「つばき」(山本一力、光文社文庫)
 「だいこん」(山本一力、光文社文庫)
 「たすけ鍼」(山本一力、朝日文庫)
 「たすけ鍼 立夏の水菓子」(山本一力、朝日文庫)
 「銀しゃり」(山本一力、小学館文庫)
 「たまゆらに」(山本一力、文春文庫)
 
 


 「全世界史 下巻」(出口治明 、新潮社文庫)
 「じゃりン子チエ」2,3(はるき悦巳 、双葉文庫)
 「本能寺の変 431年目の真実」 (明智憲三郎、河出文庫)
 「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」(大木 毅、岩波新書)
 「ハーバード日本史教室」(佐藤智恵、中公新書ラクレ)
 「死の淵を見た男」(フクシマ・フィフティ)(門田隆将、角川文庫)
 「日本の『運命』について語ろう」(浅田次郎、幻冬舎文庫)
 「ハーバードはなぜ基本を大事にするのか」(佐藤智恵、日経プレミアシリーズ)
 「歴史能力検定 2019年実施 全級問題集」(歴史能力検定協会、河合出版)
 「歴史能力検定 2級問題集 過去問」(歴史能力検定協会、河合出版)
 「詳説 日本史B 改訂版」(笹山晴生 佐藤信 五味文彦 埜利彦ほか15名 山川出版社)
 「ノモンハンの夏」(半藤一利、文春文庫)
 「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(加藤陽子 、新潮社文庫)
 
 



 
 
 
 



「ハーバード日本史教室」(佐藤智恵)

 ハーバード10教授の白熱授業から見えた日本の魅力とは
 なぜ世界最高の知性は日本史から学ぶのか

 「ルーズベルトは前出のセオドア・ルーズベルトの縁戚で、1933年から1945年まで大統領を務めた。アメリカ史上、唯一四選された大統領であ り、世界恐慌後、及び、第二次世界大戦時に行った経済政策は国内で高く評価されている。一方、人種差別的な政策を推進したことについては批判さ れており、評価がわかれる大統領だ。」(佐藤智恵)

 「私は大学時代に半年間盛岡市に留学していましたし、大学卒業後も宮古市の小・中学校で2年間、英語をおしえていましたから、被災地には 特別な思いがあります。1994年まで宮古市に住んでいましたが、本当に美しい町でした。」「(宮古市の防潮堤を津波が乗り越えていくニュースに触れて) 私は被災地の方々が歴史から学んでいない、と言っているわけではありません。田老地区の人々は、そこがそこが津波におそわれる危険性のある地区だと いうことを知っていたからこそ、巨大な防潮堤を建設したのです。地元の人々も大変誇りに思っていました。ところがその防潮堤は、限られた短い期間の データをもとに津波の高さを予測してつくられたものでした。私たち歴史学者の役目は地質学者などと協力して、長い歴史からの教訓を伝えていくことだ と思っています。」(イアン・ジャレッド・ミラー教授)

 ふと、日本の歴史に関して、同じような素晴らしい本があったことを思い出して探してみたところ、『戦争の記憶』(キャロル・グラック コロ ンビア大学特別講義)を発見することができました。なかなか刺激的な講義でした。

 ならば、日本人でそんな人はいないのかと探してみたところ、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子 東京大学大学院人文社会 系研究科教授)を思い出しましたが、まだ発見に至りません。





「椿と花水木 万次郎の生涯(上下)」(津本陽)

ジョン・マン(アメリカでの通称。旗本に召し抱えられ、中濱万次郎となる)がホイットフィールド船長の養子となり、バーレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術を学び、首席で卒業した後、捕鯨船に乗り込みます。当時の捕鯨業の中心は太平洋で、何度も日本に近づきながら帰国できないところまで来ています。キャサリンと結婚し、新妻を残してニューベッドフォードから出ていく前に、子どもの名前を付けて欲しいと頼まれました。ジョン・マンが答えたのは、男ならドッグウッド(花水木)、女ならカミーリア(椿)でした。。

捕鯨船に乗って、 3年後にヌーベッホー(ニューベッドフォード)に帰って来たとき、キャサリンの行方不明(事故死)を知らされるという過酷な運命が待っていました。日本に帰ることを決意するに至った最大の理由です。




「密やかな結晶」(小川洋子)

なんだか、村上春樹さん風の仕掛けのような感じで、困りました。実は、この作品は英文学界の「ブッカー国際賞」候補にノミネートされているそうで、受賞作の発表は5月19日です。ドキドキものですね。まだまだ新型コロナは終わっていないばかりか、さらなる混乱もありうるころですねぇ。。

ブッカー賞の発表は5月19日の予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、今年の夏まで延期となった。
ブッカー国際賞は2005年に創設。2018年に受賞したポーランドの女性作家オルガ・トカルチュクさんは、2019年にノーベル賞を受賞。アジア圏では、2016年に韓国のハン・ガンが「菜食主義者」で受賞している。


「いいえ、父がよく言っていましたわ。おまえが母さんから受け継いだのは、虫歯のないその丈夫な歯だけだって」

「歯が美しいことは大切なことだよ」

「母は仕事場の机に、いつも新聞紙にくるんだイリコを置いていたんです。それをムシャムシャ食べながら仕事をしていたの。ベビーサークルに閉じ込められたわたしがぐずりだすと、まだ歯も生えていない口の中に、イリコを一匹放り込んで、黙らせていたそうなんです。おがくずや石膏の匂いが混じり合ったその味を、今でも覚えています。ジャリジャリして、ひどい代物だったわ」

誰の足跡もついていない、無償の雪だった。

血をきれいにする青菜が一束、など。




「ジョン万次郎漂流記」(井伏鱒二)

失礼になるかもしれませんが、これで直木賞を受賞したとは信じられないことです。
参考文献としては次の二つくらいなものですから、それなりに頑張ったのでしょうか?

・川田維鶴(河田小龍)撰 『漂巽紀畧』 嘉永5(1852)年 :漢文で書かれています
・中濱東一郎編著『中濱萬次郎傳』冨山房、1936年

「漂巽紀略(ひょうせんきりゃく) 全現代語訳」(ジョン万次郎述 河田小龍記、講談社学術文庫、2018年)にほとんど近いものだと思いました。

1860年3月18日のサンフランシスコ・アルタ・キャリフォルニア新聞で「勝艦長は航海中、ほとんど病気(船酔い)で寝どおしであった」とか、 同アルタ新聞では「日本軍艦の艦長(勝麟太郎)は、英語を書物を読むような調子で話す」などと、勝海舟がらみで、実にそれらしきことがあったことことが可笑しかったくらいです。






「中濱万次郎−「アメリカ」を初めて伝えた日本人ー」(中濱博)

中濱博は、中濱本家4代目(万次郎の曾孫)です。あっという間に読み終えてしまいました。数々のことが判明しました。

「万次郎に女性関係があれば面白い話になるとは、いつも作家の方から聞く言葉である。かなり著名な歴史小説作家ですら万次郎をアメリカで結婚させてしまっている」

wikipediaでは

津本陽『椿と花水木?万次郎の生涯』注:アメリカ時代の妻として登場する“キャサリン”は筆者の創作による架空の女性。

真相の解明をしたかったわけですが、早々に明らかになりました。それはそれで残念な気がします。 日本に戻ってから3人の日本女性と結婚した万次郎は、アメリカ的だったのかも知れません。 






 「龍馬奔る 土佐の勇」(山本一力)


龍馬「あにやんの話はおもしろいき、ねえやんもここにおって聞いたらええやいか」
小龍「いまもまだ、長崎奉行所に留められちゃうがやけんど‥」
小龍「聞けば聞くばあ、あの三人は大した連中じゃど、おまさんやち分かるはずぜよ」
小龍「三人のなかでは、中ノ浜が在所の万次郎いう男が一番下で、今年で二十四になったそうや」
(万次郎は)
小龍より四歳歳下だが、龍馬からみれば七つ歳上である。
自分の歳と比べながら、龍馬は小龍の話に聞き入っていた。

あにやん(河田小龍)ねえやん(乙女)

さすがに、龍馬が宇佐浦まで網元の徳右衛門に三人の無事を知らせに行くところなど、本当かな?と思ってしまいますが、 龍馬の話の中にしばしば登場するアメリカの共和制とか、ジョージ・ワシントンの話など、小龍や万次郎がらみでなければあり得ないと思いますね。

しかしながら、万次郎と龍馬が直接会ったという話はなさそうです。お互いに忙しいわけで、仕方ないと思ってしまいます。



「ジョン万次郎の英会話」(乾隆)

『英米対話捷径』復刻版・現代版

ちなみに、乾隆氏は高知県の隣にある徳島県の人である。

What time is it now? 「掘った芋いじるな」は決して万次郎のものではない。

《 今でも使える 万次郎英語 》

air  アヤ
book  ホック
look  ロック
chirdren  チリレン
family  ファマレ
fog  フホーグ
headach  ヘディキ
hot  ハータ
town  タヲン
imagine  エマジン
morning  モーネン
never  ナウバ
new  ヌー
nothing  ナセン
power  パゥワ
quite  コワイテ
weather  ワザ
well  ウワエル
at all アッタ ヲール
long while  ローン ホワイル
with you  ウエサ ユー
He cannot ヒー キャノーッタ
I think アイ センカ

I thank you. アイ サンケ ユー
I am happy to see you in good health. アイ アム ハパ ッ シー ユー イン グーリ ヘルス
Hold your tongue. ホール ユーア タン
Are you coming? アー ユー カメン
Will you go with me? ウエル ユー ゴー ウェザ ミー
I never saw one like it. アイ ナブハ ソーワ ワン ライケ イータ




「中浜万次郎の生涯」(中濱明)

中濱博は、中濱家3代目(東一郎の三男、万次郎の孫)です。

竜馬と万次郎の接点(出会い)が明らかになりました。 ずっと後の事になりますが、竜馬が江戸に出ていたころ、勝海舟の紹介で万次郎に引き合わされて初めて会うのですが、 土佐の画家で、西洋の事情にくわしい河田小龍の書いた万次郎の海外見聞録ー漂選(巽が正しい)紀略を竜馬は早くに読んでい たもので、この時、初対面という気はしませんでした。竜馬は八歳年下です。

中濱家2代目(東一郎、万次郎の長男)の書いたものは余りにも高額なので、購入を控えたいと思います。その日記の一部は「中浜万次郎の生涯」(中濱明)でも明らかになっていますし。。




「日本の『運命』について語ろう」(浅田次郎)

幕末の名君、高須四兄弟

美濃の高須藩主松平義建よしたつ(尾張の支藩 三万石)の次男、義勝よしかつ は尾張徳川家の養子となり、徳川義勝となる。尾張藩の財政を立て直すときに城の御殿に商人を呼んで,膝詰めで談判する。 幕府が第一に長州征伐を行ったときに征討軍総督に選ばれたのが元尾張藩主徳川義勝(参謀は西郷吉之助)でした。戦いを避け、長州藩が帰順を示すと征討軍をさっさと解散してしまいます。 その後、長州藩で再び勤王派が実権を握ったとき第二次長州征伐には反対します。そして、大政奉還後には、新政府側につくのです。議定という新政府の官職に就いて藩内の佐幕派を押さえつけ、 東海道を江戸まで攻め上っていくときの先頭は尾張藩が務めました。長州征伐のころは藩主を退いていた徳川義勝ですが、動乱の世になって再び藩主に就きました。 よほど時代が見えていたと思いますね。戊辰戦争の会津攻めには、さすがに尾張藩は兵力を送っていません。

弟たちもそろって優秀でした。いろんなところへ養子に行って藩主を継いでいます。

松平容保かたもり(会津松平家):京都守護職
松平定敬さだあき(桑名久松松平家):京都所司代
徳川茂治もちはる(一橋徳川家)

参勤交代に甲州街道を使っていたのは高遠藩、高島藩、飯田藩の三家だけです。一方、中山道はおよそ三十家の大名行列が通っていました。 下諏訪宿から難所の和田峠を越えて佐久盆地に入り、軽井沢から高崎、大宮、板橋へと繋がっているのが中山道です。 この下諏訪宿は甲州街道の起点でもあります。なぜ甲州街道を使わなかったのか。中山道に比べて、格別に険しいわけでもなさそうです。ただ、宿場や道路状況といったインフラは 中山道の方が整っていたようです。甲州には金山がありましたし、江戸時代を通じて幕府の直轄領、天領だった期間も長い。もしかすると軍事上の意味で、通行を増やさないような 深慮遠謀があったのではないか、というのが私の想像です。







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