読書ノート 1997


  1. 憧れ

  2. 緑が濃くなる今ごろ

  3. 矛盾のない人間というはお化けである

  4. くじらをめぐって

  5. Who is Judy?

憧れ


「憧れ」。この言葉が好きだ。「童心」にも通じる漢字で書かないと、しっくりしない。

 憧れというのは、時間的に、空間的にはるかなものへの思いであり、あくなき好奇心ともいえる。 人間の一生の間でもっとも好奇心が強いのは四歳児だといわれる。年をとるにつれて少しずつ衰えるのはしかたないとしても、若いうちに失われてしまうとすれば、寂しいことだ。

 さる‥‥先生が嘆かわしい話をしていた。 「授業中、『これはどうなっているか考えてみよう』というとシーンとなる。私が黒板に向かうと、待ちかねたように写そうとする。このような勉強をしていると、物理も国語も、歴史も何も面白くない。だから、はやく大学へ入って勉強をやめたいわけだ」 この先生は、「学習離れ」と呼んだ。たんなる理科離れではなく、もっと普遍的なものだという。これは、「憧れ離れ」の世の中を反映しているように思われる。 あの四歳児の輝く瞳は、いつ、どこへ失われたのだろうか。 これは、お金や出世にばかり憧れる社会状況と無関係ではないだろう。それをめざすレールの上を突っ走るなかで、若者たちの肉体的冒険や精神的冒険が切り捨てられているのではないか。 知識を競争の道具に使うような教育では、未知なるものへの憧れがつみとられてしまうのも当然だろう。

 受験の役に立たなくてもいい勉強。すぐに産業に結びつかなくてもいい研究。そういうものを大切に、「知への憧れ」をじっくり醸成していきたいと思う。それでこそ、ほんとうの創造的人材が育つのではないか。 憧れを知る者が、人の世の喜びも悲しみもかみしめて、社会を変革していく原動力になると信じる。

BY T.TAKEBE 1996.5.5.
 

緑が濃くなる今ごろ


 「おともだち、できた?」迎えにきた母親たちが、わが子の顔を見るなり口々に問いかける。川副先生は、その度に、ちょっぴり戸惑う。そんなに急がなくともいいのに、と。

 ‥‥‥

 緑が濃くなる今ごろは、新入園児の親たちの心配が噴き出す時期でもある。心配の種は年ごとに違うが、ここ3年ほどは友だちづくりにしぼられるようだ。自分の子がひとり遊びをしているとオロオロする。グループの中にいれば、それだけで安心する。

作者わからず?


矛盾のない人間というのはお化けである


 私は、その戦国時代という時代の人間の生き方に大きな魅力を感じる。それは、人間がそのあらゆる力を発揮して、時代の中にすべての可能性を引き出そうと動いているからだ、そして彼らは、その意味では人間そのものである。現在のように部分的な人間に成り下がってはいない。獣のように素早い反射神経をもつているかと思えば、詩人のように優雅で繊細な感情を持つ。‥‥‥斎藤道三、明智光秀、織田信長等々、それらはあるときは残忍に、あるときは慈愛にみちて、その人生をつきすすんだ。酷薄なほどに計算する男が、愛情のためには生命を惜しまないのである。人間とは、所詮そのように矛盾に充ちたものなのだ。

 道三が主君頼芸を追放するときの言葉だ。「時代だ。時代というものよ。時代がわしに命じている。その命ずるところに従ってわしは動く。時代とは何か。天といいかえてもよい。」

司馬遼太郎『国盗り物語4』(新潮文庫)中の
奈良本辰也「解説」


くじらをめぐって


 今も頭に残っている質問はこうであった。「日本人はなぜくじらを食べるのか。」「世界の中で多くの国がくじらを獲らないのに、なぜ日本だけがくじらを獲るのか。」「くじらは哺乳動物だから、殺すのはいけない。」「くじらは大きいが、やさしい動物だ。殺すのは残忍だ。」「くじらの肉はおいしいか。」

 こんな答え方をした。今から150年ほども前の昔話から始めることにした。アメリカ人のペリー提督を知っているか、と子どもに尋ねた。2年生だから知っている子はいない。担任の先生は聞いた名前だとはいったが、思い出せなかった。そこで、19世紀の中頃にペリー提督が軍艦を率いて日本を訪問し、日本の港をアメリカに開くように求めたことを話した。

 次に、なぜ開港を求めたか、その理由が想像できるかと質問した。すぐに貿易という答えが返ってきたので、いや違う、アメリカは日本の近海にたくさんいたくじらを獲るため、漁船の停泊できる港が欲しかったのである。日本人は食べるだけのくじらを捕っていたが、アメリカやイギリスは、くじらの油でキャンドルを作るためにたくさん獲っていた。つまり、くじらの捕獲が日米交流の出発点である、と説明したのである。アメリカの子どもや先生に、日本だけがくじらを殺し、アメリカはくじらを殺したことはない、という神話の誤りにも気づかせたかった。 

 もう一点、人間が何を食べるかはその人たちの長い習慣であるから、簡単に何はいい、何はいけないと決めつけるのはよくない、ということも話した。そして、昔日本人は牛を食べなかった、牛は農業を手伝ってくれる大切な動物であるし、仏教では殺してはならない動物であった。アメリカは習慣が違うので、おかしいなと心の中では思っていても、アメリカ人に牛を殺してはならない、とは決して言わなかったことにも触れた。結局、一般的には、くじらを捕獲することも食べることも一つの文化であり、こうした問題では、何かが絶対正しいと思わないようにして欲しい、と話をまとめたのである。小学校2年生がどれほど文化論まで理解してくれたかはわからなかったが、担任の先生は、突然のお客の説明を真剣に受け止めてくれた。

梶田正巳「異文化に育つ日本の子ども」(中央公論社)


Who is Judy?

 二十数人の子どもを前に、ボブ先生は、今日は何の日かと尋ねていた。こんな質問はいつものことなのだろう。こどもたちは先を争うかのようにジュディの誕生日と答えている。すると、先生は子どもたちに「Who is Judy?に答えなさい。先生が黒板に書くからね」と促した。「ジュディはかわいい」「ジュディは金髪である」「ジュディは本を上手に読む」「ジュディはきれいな服を着て学校に来る」「ジュディはピアノを上手に弾く」「ジュディは良い友だちだ」。ボブ先生は、子どもの答えるいろいろなジュディを黒板いっぱいに書いていった。

梶田正巳「異文化に育つ日本の子ども」(中央公論社)