海辺のホテルに一泊したが、串本町のほとんどが低いところにあると思った。
海岸の近くには海抜2mとか、海抜5mとかの津波警戒の標示がしてあったが
その程度では何の慰めにもならないことは理解できるわけで‥
ホテルでは何の説明もないし‥
もし津波が襲ってきたらどこに逃げようか、そのことがとても気になった。
どうしても気になって(帰阪後に) 「串本町津波防災対策基本計画」(平成18年3月)なるものを調べてみた。 串本町では津波到達までに時間が短いので、「揺れたら逃げる」の一層の徹底をはかる‥となっていた。想定される津波の高さは4〜9mとなっていた。それも、見直しをはかる必要があると思った。 次は「計画」の一部である。 海岸部に高い防潮堤など見あたらず、概ね、正直である。 津波対策として海岸施設等の補強や津波防波堤などが考えられるが、現在の海岸施設等を、地震・津波に対応した施設とするためには長い期間と多大な費用が必要であり現実的には困難である。 さらに、串本町は地震発生後数分で津波が来襲するため、津波の大きさや危険度を判断している余裕はほとんど無く、逃げ遅れは大きな犠牲を生じる結果となる。 このため、津波に対してはまず逃げることが重要であり、「逃げる対策」(ソフト対策)が最優先となる。 (以下、省略) |
2日目の行き先は、串本町に絞られた。本来、ここがメインだった。 |
行き先は本州最南端の潮岬と「くしもと大橋」で繋がった紀伊大島である。 |
潮岬まで行ったが、開門は9時からであった。待つことよりも、 駐車場に300円、灯台への入場に200円も架かることが不満で、すぐに立ち去った。 紀伊大島の樫野崎灯台が全て無料であることと比べると無駄な出費は避けたいと考えた。 |
潮岬観光タワーと売店である。 |
潮岬観光タワーに(エレベーターで)上ると、この証明証がもらえる。 北海道東端の納沙布岬でも同じような証明証をもらって喜んだことがある。 |
潮岬観光タワーの上から潮岬灯台をズームで撮る。斜めに傾いているのはカメラであって、灯台ではない。 |
くしもと大橋を渡り、紀伊大島に渡る。まぐろ養殖の筏や対岸の串本港などがしっかりと見える。 海岸縁に建っているのがわれわれの泊まった浦島ハーバーホテルで、高台に建っているのが串本ロイヤルホテルである。 ロイヤルホテルの方が少々料金は高いが、「津波対策」込みと考えると、そう高いわけではない。お奨めである。 |
紀伊大島の東端、樫野にある「日米修交記念館」であるが、訪れる人は少なそうである。
微妙な形の建物だが、一階が展示室で、あとは屋上の展望台だけである。
米国旗と日章旗が並んで揚げられている。ポールが曲がっているのではなくて、カメラが傾いていたようである。
ペリーよりも早く(1791年3月に)やってきて通商を求めたのが、 大島地区(熊野古座組樫野浦)であることが調査の結果、日米の文献などから確認されたとのことである。 日米両国のより大きな友愛と協調を願って、この地に日米修交記念館を建設した。 米国の文献によると 「ボストンのレイディ・ワシントン号(船長ケンドリック)がニューヨークのグレイス号(船長ダグラス)を伴って入港した。 ラッコの毛皮を交易しようと南日本の港に入港したが、住民は毛皮の使用方法を知らなかったので商売にならなかった。」 日本側の文献では 「中華国に趣き皮革を交易しようとしたが果たさずに去る。偶々(たまたま)風浪にあい、漂流してここに到着した。 この地に在ったのは35日間以内であった。風向が好くないので、ここに帯在(たいざい)していた。好風が来たので即ち去る。」 |
「海金剛」と呼ばれる岩礁地帯。岬の最先端に「樫野埼灯台」が見える。手前の岩場で釣りをしている人を発見した。 |
「トルコ記念館」
トルコ軍艦遭難の悲劇(明治23年6月)を機に犠牲者の慰霊を通じて、串本町とトルコ国との交流が始まり、 昭和39年11月ヤカケント町との姉妹縁組みを結び、平成6年にはメルシン市との姉妹都市提携の正式調印を果たした。 この記念館は、トルコ国との友好の証として、また、今後一層、日ト親善の契りを深めると共に、 国際的な友愛の精神を広く伝えることを目的として、建設されたものである。 |
屋上からトルコ軍艦「エルトゥールル号」の遭難現場が見える。中央の一番上に見える岩礁がそれである。
明治23年9月16日、帰途についた特派大使オスマン・パシャ一行の行く手を阻んだ熊野灘の暴風雨は、エルトゥールル号を 樫野埼灯台沖、船甲羅の岩礁へと押し流して行きました。昔から船乗りにとって海魔と恐れられていたこの岩礁に乗り上げた艦は 中央より両断、オスマン・パシャ以下、580余名の尊い命が奪われました。一命を取り留めた士官ハイダール以下69名は荒れ狂う 怒濤の中、大波に翻弄されながらも、島に這い上がり、樫野の灯台に助けを求めました。 嵐の、しかも深夜、ましてや通信機関や救助機関もない離島での大事件。それでも島の人々は手持ちの着物やふとんを持ち寄り 応急処置と看護にあたり、また。各戸に備えていた芋や飼っている鶏などの食料を提供し、幸いにも洋食調理の心得のあった 村人の一人、樫田文衛門がコック役を務めましたが、小さな村に一度に69名の珍客を迎え、たちまち食料は底をついてしまい ました。にもかかわらず村民は、トルコ人が本国で賓客に示す歓待の意を示すに劣らぬ歓待の意を表し、食料の一切を喜んで 提供したといいます。 その後、生存者の救済の一方で、遺体の捜索もなされました。発見された遺体はハイダール士官立ち会いのもと、船甲羅を臨む 樫野埼の丘に埋葬されましたが、オスマン・パシャをはじめ、300名以上の将卒の遺体はついに発見されることなく、遠く故国を 離れた異国の地、樫野の海底深く永久に眠り続けているのです。(「トルコ記念館」のパンフレットより) ちなみに、遭難海域の海底捜索が近年に行われ、引き揚げられた遺物も展示されている。 館内撮影禁止のため、ただ記憶に頼らざるを得ないのが、何とも心許ないところである。 |
「トルコ軍艦遭難慰霊碑」
エルトゥールル号が遭難した明治23年当時、地元樫野の冬眠は献身的な救助活動を繰り広げ、引き上げられた遺体は、 救出され一命を取り留めたハイダール士官立ち会いのもとに、遭難現場である船甲羅岩礁を真下に見下ろす樫野埼の丘に 埋葬されたと伝えられています。 翌、明治24年3月、和歌山県知事はじめ、有志の義金により墓碑と追悼碑が建立され、併せて追悼祭が行われました。 後に、昭和天皇の樫野埼行幸(昭和4年)を聞いたトルコ初代大統領ケマル・アタチュルクが新しい慰霊碑を建立する事を決定し、 和歌山県が委託を受け、このような立派な弔魂碑に改修されましたが、墳域設定に際して、大島村民は樫野埼灯台南西 約100平方メートルのこの広場を提供いたしました。そして天皇行幸8周年記念日に当たる昭和12年6月3日、除幕の日を迎え、 今日もなお熊野灘を行き交う船舶を見守るかのように、樫野の丘にそびえ立っているのです。 明治24年以来5年ごとに盛大な慰霊祭が執り行われています。(「トルコ記念館」のパンフレットより) |
紀伊大島の東端にある「樫野埼灯台」入り口 |
「樫野埼灯台」 高いところは苦手なわけで、螺旋階段を登るだけで目眩がしそうである。 |
帰りに立ち寄った白浜の「崎の湯」。露天風呂だけである。 |