オダサクと蝶子と柳吉が歩いた「夫婦善哉」

〜行き暮れてここが思案の善哉かな〜

2013.4.29



千日前本店にて、サンドウイッチとブレンドコーヒーの軽食を摂る。ここも「北浜店」と同じく、昭和9年創業である。





相合橋南詰の金龍ラーメン。ここは、鰻まむしの店「いずもや」のあったところである。





太左衛門橋南詰といえば、「角座」があったところ。まもなく、新しい角座が誕生する予定である。





さてさて、集合場所の日本一に向かい、今日のイベントが始まった。 「日本フリーメソジスト教団・大阪日本橋キリスト教会」は、1925(大正15)年に建てられた。 2001(平成13)年に「一粒社ヴォーリズ建築事務所」が保存修理を行った。登録有形文化財に指定された鉄筋コンクリート造三階建。





黒門市場に入る。 「この市場にしか見られない特徴は何ですか?」の問いに「アーケード上の飾り物」と答えたら、見事外れてしまった。 答えは、「魚屋さんが多い中に突如、洋服店が入っている」ということらしい。「なるほど‥」だった。

お店とお店のあいだの細い路地に、柳吉と蝶子が住んでいたところがあった。路地というよりは、住んでいる者にとっては、れっきとした道なんだよね。





市場から西に向かう道は、柳吉と蝶子が通ったところである。 「本せきぐち」は、平均予算10、000円のちょっと高級な「すき焼き店」のようである。お二人は、こんなお店は避けたに違いない。





アムザの東隣にあるのが「三津寺墓地」である。入口に軽トラが2台も駐車していたのには参った。





安井道頓・安井道卜のお墓となっている。 現在では、成安道頓(摂津国平野郷の名家)の方が一般的で、道卜は河内国久宝寺村の人。 すぐ近くであることは確かだが、二人は、従兄弟でも、兄弟でもない。何らかの方法で、訂正文を載せるべきだと思う。





「三勝半七の墓所」である。 元禄8(1695)年12月7日、千日寺の火葬場横の通称サイタラ畑で、長町4丁目の遊女・三勝(24)は、通い客の茜屋半七(35)と心中した。

豊竹座「艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)」下巻「酒屋の段」で、 半七の貞淑な女房お園が、夫に裏切られながらなおも夫に気を使う妻の気持ちを巧みに表現したのが、「今ごろは半七さん どこでどうしておじゃるやら…」とのこと。 裏切られた女はいつも哀れでならない。





相合橋筋商店街にある「イサオ書店」は、なかなか良さげな古本屋である。 ちなみに、千日前通の周辺には7軒の古本屋が集まっているようだ。尋ねてみる値打ちはありそうだ。





相合橋北詰にある句碑。食満南北の作品「盛り場を むかしに戻す はしひとつ」だが、元を正せば、太左衛門橋にあったもの。

食満南北は、明治42年 (1909) からは初代中村鴈治郎の一座に加わり松竹に所属。鴈治郎の座付き作者として多くの戯曲や随筆を書く傍ら 『演劇画報』などの演劇関係の雑誌に関西歌舞伎関係の記事や批評を載せ、戦後に至るまで関西劇壇の重鎮として活躍した。 また大正期には六代目鶴屋南北を名乗っていた。





相合橋を潜って東に向かう川船。これに乗って、大川まで行きたいと思う。「閘門式」を体験したいと思う。





白い看板に「名代蒲鉾 さの半」と書かれている。残念ながら残っているのは看板だけで、お店は営業されていない。





寺だったように思うのだが、場所が特定できないでいる。道頓堀の地図を見ながら、説明する井村氏。





地図だけを大きくアップしてみた。「浪花茶里八景」と名付けられている。坂町を通り、目指すは法善寺なり。





上方ビル。4階「TORII HALL」は千日前の小さなホール。落語会や講談や漫才コントだけでなく、 演劇公演やコンサート、映画上映などにも使用できる約100席の小劇場である。





坂町の天丼の店。





東からの入口は2つあり、これは広い方である。天龍山法善寺の石碑あり。





東からの入口のうち、北側のほんに狭い「横丁」への入口に、3代目桂春団治が書いた「法善寺横丁」の看板が架かっている。 とても見えにくいが、達筆であることは確かである。





懐かしおます この横丁で
おもろし噺 五捨銭也
此処は花月の落語場あと
(場所)法善寺横丁 浪花割烹喜川前



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