夫婦善哉(続)



浪花割烹喜川には、「浪速魚菜会」の看板も掛かっている。 (先代の)板前はんが「なにわ大阪 食べものがたり」を著している上野修三氏であり、(現)板前はんは彼の息子である。





かつて多くの文士が顔を出した、浮世小路の「路」である。 こんな時に、真っ先に思い浮かべるのは開高健ですが、3代目桂春団治、六代目松鶴、春蝶、藤本義一氏などの名も出てくる。





道頓堀今井は、楽器店から始まったことが分かる。浮世小路の展示品のひとつである。





道頓堀今井の玄関。ここのうどんは、旨い。





道頓堀今井にある石碑。「頬かむりの中に日本一の顔」(川柳作家 岸本水府)

『河庄』は初代中村鴈治郎の当り役であった。治兵衛を自分なりに工夫して作り上げたもので、頬かむりをしての花道の出は絶品とされる。





02年に起きた大阪・法善寺横丁の火災から復興し、03年にオープンした飲食ビル「大阪屋バイストリート横丁」の名付け親になった。藤本義一氏のことである。





藤島桓夫「月の法善寺横丁」歌碑

藤島桓夫は、作家の藤沢桓夫にあやかって付けられた芸名である。そういえば、元々混同してしまうところがあった。トリビアですな。





正弁丹吾亭の前で熱弁するガイドの井村氏。





「行き暮れてここが思案の善哉かな」

織田作之助

作家の藤沢桓夫、秋田實、長沖一に、版画家の前田藤四郎らが、発起人として建てた。 本人の筆跡を刻んであり、その背の高い風貌に似せて、ひょろりとした石を使ったという。





「かくばかり 鯛を食はゝ鯛の奴 うらみつらむか あるいは否か」

平田春一(俳人)





「じょうかん屋 へいゝゝと さからはず」

西田当百(川柳作家)





この横丁の敷石は、南海平野線で使用されていたものという。元乗客としては、とても嬉しいと思った次第である。





ご存知、西側から横丁に入る道に掛けられている看板。永遠のアホぼん、藤山寛美が書いたものだが、達筆である。 横棒がひとつ足りないことを、役者さんらしく、軽くいなしたところが素晴らしいと思う。





西側のもうひとつの入口から、法善寺の境内に入った。正面にあるのが、「夫婦善哉」のお店である。 柳吉が、なぜ大小2つに分けて出てくるのかを語る場面が浮かんでくる。





境内の真ん中に位置するのが、水掛不動さんで知られる不動明王である。参拝客が絶えることはないようで、今日もまたお参りすることができなかった。





苔むす不動さんは、戦後が過ぎた頃からのものらしく、大抵の人は「以前は、苔などなかったのに‥」と語っている。





火事でも焼けなかったもうひとつのものが、この井戸である。石組みと地下水だから、燃えようがないことは確かであるが、余計なことは言わないほうがいいだろう。 慶応4年の銘が打ってあった。





再度、行列が絶えない水掛不動さんにお別れをする。また来るでえ〜。