OSAKA緑のウォーキングリレーチャレンジ24 中央区 10.6km

2013.2.17



様々なイベントで、あるいは個人的に何度も訪れたところである。だからといって素通りするのではなく、 これまでの総復習として、まとめ直してみようと考えた。恥ずかしながら、忘却を少しでも防ぐためでもある。





谷町4丁目から地下道を東に向かうと、たいてい大阪歴史博物館前に出る。5世紀の法円坂大型高床建物が迎えてくれる。





上町筋に出たところで、1本の白梅が登場した。大阪城梅林へ行くのはまだ控えている。





今回の集合場所は教育塔前だった。1934年の室戸台風で犠牲に遭われた教職員25名をはじめ600名を超す子どもたちを供養するとともに、 御巣鷹山での日航機墜落事故(1985年)の犠牲者も合葬されているとのことである。





大阪城公園を出て街中に向かう「大手前」交差点。茶色の壁をもつ国民会館のスクラッチタイルがお気に入りである。 これから自宅を立てるとすれば、スクラッチタイルの壁が理想だが、そのチャンスは訪れそうにない。





江戸時代の公儀橋の一つ、高麗橋である。東詰に里程元標跡の碑が経っている。 江戸時代の里程計算の起点となり、明治以降も引き継がれた。ただし、現在は道路元標として梅田新道交差点西北角に移されている。





北浜にある大阪証券取引所南の通りを西に向かっているところで、信号待ちをしている。 そこで、北向きに(ズームで)写真を撮ってみた。 難波橋のライオン像がくっきりと浮かび上がっている。新しく購入したカメラはなかなか優秀である。





適塾で学んだ英才は数知れずだが、まず思い出すのは大村益次郎や福沢諭吉あたりかな。 その他、橋本左内、大鳥圭介、高松凌雲、佐野常民、手塚良仙(漫画家手塚治虫曽祖父)などを輩出している。 天保九年(1838)、緒方洪庵29歳の時から53歳に至る24年間にわたって、適塾は続いたとのこと。国の史跡・重要文化財である。





適塾の隣の公園は街歩きの際によく休憩地点となる。 緒方洪庵先生にとりあえずご挨拶をして通り過ぎる。適塾や懐風堂が大阪大学のもとになったことは確かだが、 大阪に設けられた理化学を専門とする舎密局(セイミキョク)が京都に持って行かれたことは少々残念だと思ったりする。





とても小奇麗な三休橋筋である。かつて長堀に架かっていた三休橋から名付けた。北には栴檀木橋があるんだから、栴檀木筋でもいいと思うのだが‥。 そこに建つシェ・ワダ高麗橋本店(辰野金吾 設計 元大阪教育生命保険)と浪花教会(ヴォーリズ 設計)。 こじんまりとしているが、どちらも貴重なモダン建築の代表的なものである。





綿業会館(渡辺節 設計)は会員制倶楽部の会館だが、月に1回ある一般公開日に見学したところである。 岡常夫氏(当時東洋紡績専務取締役)の100万円の寄付を元に、業界からの50万円の寄付を加えて建てられたモダン建築は国の重要文化財であり、 各部屋ごとに違うスタイルで造られているのが特徴である。

ちなみに、中央公会堂は株式仲買人である岩本栄之助が100万円を寄付したことが元で建てられた。 アメリカで、企業家たちの寄付で多くの建物が建てられていることを知ったことがきっかけである。 公会堂の地下1階「岩本記念室」も覗いてみるといい。





企業家ミュージアムは、本町橋のすぐ近くにある大阪産業創造館B1が入口である。 近ごろ、シャープの創業者である早川徳次氏に関する講演を聴きに行ったばかりである。 年間パスもつくっていただいたが、途端に再訪問の機会があるかどうか不確かなところだ。





谷町3丁目交差点から歩いて企業家ミュージアムまで来るときにこの橋を渡る。 この本町橋も江戸時代の公儀橋の一つである。歴史博物館で研修したばかりだが、大正2年に完成した市電敷設を目的に(頑丈に)造られた国産鉄橋である。 大阪で現役最古(2013年で100歳)の貴重な橋となったが、高速道路の陰に隠れてしまったのが残念である。





前に見えるのが大阪市立南大江小学校である。





南大江小学校にあるのが、太閤(背割)下水である。太閤秀吉のとき、大坂城に向かう東西道を軸に町がつくられた。 その道路に面した建物の背中どうしのところ(裏口)に下水溝が掘らたので背割下水と呼ばれた。 「大阪あそ歩」のイベントで、地下に潜って見学したことがあるが、今もなお綺麗な水が流れている。





榎大明神のすぐ下に、直木三十五の碑が立っている。





空掘商店街、丁寧に言うと「はいからほり通り」を横切るのだが、憧れの「人気店 冨紗家本店」がチラッと見えた。





からほり長屋再生複合ショップのひとつ「惣」である。 草がむす屋根が特徴である。かつて訪れた時は工事中で、今回は入る時間的な余裕がない。長屋再生プロジェクトには「惣」以外に「萌」「練」があり、「練」には入ったことがある。 食事をしたのは「空堀ど〜り商店街」の「Mon-ami もなみ(洋食)」で、ペッタンコでやたらと大きなハンバーグだったことを記憶している。





高津宮まで来た。ここで初めての休憩となったが、トイレが2箇所しかなく、随分待たされた。 大集団が移動するイベントでは、トイレのスムーズな利用が欠かせないはずである。





勧善歌碑という漢詩についてはよく知らないが、藤沢南岳(1842〜1920年)といえば、通天閣の命名者として有名らしく、 かなり優秀なお方だったようだが、よく知らない。なお、藤沢南岳の孫で小説家として知られる藤沢桓夫(たけお)に「私の大阪」という随筆があり、 大阪市内の精華小学校・集英小学校・愛日小学校・桃園小学校・愛珠幼稚園などの命名もしたとのこと。



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