河内源氏の故郷を訪ねて 2

2011年3月4日(金)

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たどった道が間違っていないことを示している。人影のない静かな村では、この標示がとてもありがたい。 初めに通法寺跡を目指す。



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通法寺の山門である。

 羽曳野市壺井は河内源氏の発祥の地として知られていますが、この壺井通法寺は、長久4年(1043)に河内国司であった源頼信が 小堂を建てたことから始まります。前九年の役(1051〜62年)の時、東北地方で活躍した源頼義が浄土教に帰依し阿弥陀仏を本尊 としてから河内源氏の菩提寺となり源氏の繁栄と共に栄えました。
 南北朝時代(約700年前)には、戦火にあい建物を焼失しましたが、江戸時代になって源氏の子孫・多田義直が5代将軍綱吉に願い出て 柳沢吉保らが普請奉行となって再建しました。ところが、明治時代の廃仏毀釈により現在のように、山門・鐘楼などを残すだけとなっ てしまいました。
 なお、ここには源頼義の墓があり、南東約200mの丘陵にはその父・頼信と子義家の墓もあります。

 【河内ふるさとのみち 史跡・通法寺跡 羽曳野市】



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源頼義のお墓である。

 源頼義は父頼信、母修理命婦(しゅりのみょうぶ)の長男として生まれた。平忠常の乱の際、父を助け乱の鎮圧に貢献し、はやくから その武勇を東国武士に知らしめていた。
 永承六年(1051)「俘囚の長」である安倍頼良(のち頼時)が反乱をおこした際、乱の鎮圧にあたった。一旦は頼時を従わせたが、 その後頼時とその子貞任(さだとう)がふたたび謀反をおこしたため、出羽豪族清原の援を得て、康平五年(1062)ようやく乱を 平定した(前九年の役)。また頼義は前九年の役の出陣に際して、石清水八幡宮に参拝して戦勝を祈願し、その戦功をあげることが できたので、その感謝の意味をこめてこの地に八幡神を勧請し、通法寺の北側に壺井八幡宮を建立。源氏の氏神とした。
 承保二年(1075)七月十三日、八十八歳でその生涯を閉じ、通法寺境内に葬られたといわれている。

【 歴史街道 国指定史跡・源頼義の墓 みなもとのよりよしのはか(988〜1075) 羽曳野市 】



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通法寺跡を出てしばらく歩いた。まもなく、壺井八幡宮である。



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壺井八幡宮の鳥居と急な階段が見えてきた。



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急な階段を登ると、右側に樹齢約千年の楠の木があった。千年遡ると、1,011年となり、時代的にもほぼ合っている。



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八幡宮の門は閉じられていて、入ることはできない。



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復元修理された八幡宮。

 この台地は1020年に源頼信が河内守に赴任直後、河内源氏の本拠と定めた香炉峰の一角に当たるが、その後1064年、前九年の役を平定 した源頼義が石清水の神を勧請し、守護神として創建したのが始まりである。
 現八幡宮及び権現社は元禄期に綱吉の命で再建されたものを平成に復元修理されたものである。

【 府指定史跡・壺井八幡宮境内  大阪府教育委員会 羽曳野市教育委員会】



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吹く風をなこその関と思へども道もせにちる山桜かな (源義家 歌碑)

「来る勿(なか)れ」という名の勿来の関なのだから、吹く風も来ないでくれと思うのだが、 道を塞ぐほどに山桜の花が散っているよ(複数のネットで検索した‥)くらいの方が分かりやすいと思う。

戦よもう起こってくれるな 人の命が 桜の花のように散るではないか、という風に、 この八幡宮の立て札で紹介されていた。そんな読み方もあるんだなと感心した。

とにもかくにも‥いよいよ桜の季節が近い、と思ってしまった次第である。



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真新しい句碑である。この方が分かりやすいが、春は桜でしょ‥と突っ込みたくなる。

地元の俳人が詠んだ句である。



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壺井八幡宮を去り、おおよその判断で見知らぬ山を越えた。「上ノ太子」駅まであと0,8km地点。



西名阪高速道路と山の上まで広がるビニるハウス群。
ビニルハウスの中はブドウかな?



高速道路の下の道を進んだ。
「大阪府立近つ飛鳥博物館」まであと4,3km」とあった。
「上ノ太子駅」に間近いところである。



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ようやく「上ノ太子」駅に辿り着いた。かつて栄えた「竹内街道」沿いにある駅であるが、急行や特急の止まらないローカルな駅である。 この街道は、その昔には、難波と京(飛鳥)を結んだ全長26kmに及ぶ「最古の官道」であり、シルクロードの東端とも呼ばれている。



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