河内源氏の故郷を訪ねて

2011年3月4日(金)

最高7℃/最低2℃ は、冬の気温ではあるが、お日様が出ているから心配はしていない。先日来、わたしの関心は 「和泉」から始まり、「摂津」「河内」へと変わって行き、わけもなく「河内源氏」にまでたどり着いた。 調べてみると、河内源氏の故郷はさほど遠いところではなく、散歩がてらに歩けそうだと思った。 地図を頭にたたき込んで、早速、出かけることにした。 近鉄長野線「喜志」から歩くか、近鉄南大阪線「上ノ太子」から歩くかで悩んだが、先に電車がきた方から歩こうと決めたのだ。 後から思うと、そのおかげで助かったと思っている。最後の山越えは少々辛かったからだ。

行程は、喜志〜太子〜通法寺〜上ノ太子。地図上で約4kmとみた。実際には8,855歩で、余計に歩くのは予定通りである。(所要時間:1時間45分09秒)



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近鉄長野線「喜志」駅から出発。バスを使わず、歩くことに決めたのだが、最初のバス停がようやく見つかって何となく安心した。



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「河南橋」は、石川に架かる橋の名前だと思われる。



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石川を渡る橋から撮った。北側が下流であり、やがて大和川に合流する

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「梅川橋」:やがて石川に合流する梅川の橋であろうか?

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この道で合っているのだろうかと心配しながらも、ひたすら歩き続けた

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「太子」という標識をみて安心する。ここを左に曲がれば目的地に着くはずである
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またも小さな川にさしかかった。太井川に架かる橋を渡る。橋の名前は「松本橋」である

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「通法寺」の標識に出会って、この道で正しいことが確認された。ホッとした。



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通法寺(源氏の菩提寺、廃寺)に行く前に、この標示に従い、小山に登っていく

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「源氏墓」をたどる

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トンネルのような道から右にそれて、「源氏墓」を目指す

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源頼信のお墓である。

 源頼信は、清和源氏の家系である満仲の三男として生まれた。二十歳のとき中央官界に身を置き、藤原道兼や道長に仕えた。 特に、長元元年(1028)年に勃発した平忠常の乱の際には、追討使平直方にかわり反乱を鎮圧した。この乱を鎮圧したこと によって、頼信は武家の棟梁としての確固たる地位を築いた。
 また、上野・常陸・石見・伊勢・美濃などの国司を歴任して おり、最後に河内国司となる。そのとき、河内国古市郡壺井(現壺井・通法寺)に本拠地を構え、河内源氏をひらくもとに なった。
 長久四年(1043)には、頼義とともに観音堂(のちの通法寺)を建立したと伝えられ、代々河内源氏の氏寺として 信仰された。
 永承三年(1048)、81歳の時この地で死去し、遺言により通法寺の巽(東南)の丘陵上に葬られた。

 【 歴史街道 国指定史跡・源頼信の墓 みなもとのよりのぶのはか(968〜1048) 羽曳野市 】



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源義家のお墓が見あたらなくて困ったが、帰り道で、トンネルの道の向こうにあるのを見つけた。



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源義家のお墓である。

 源義家は父頼義、母平直方の女(むすめ)の長男として生まれた。七歳の時、石清水八幡宮で元服し八幡太郎と名乗った。 前九年の役の際、頼義に従い反乱を鎮圧し、武将の名声を高めた。
 永保三年(1083)には出羽豪族清原の内紛が起こるが、寛治元年(1087)その鎮圧に成功し、武将としての地位は不動の ものになった(後三年の役)。
 この功績から、百姓が土地を寄進しはじめ、寛治六年(1092)には、朝廷から土地の寄進を禁止されるまでになった。また、 永徳二年(1098)武将で、はじめて院への昇殿(殿上人)を許された。
 晩年、康和三年(1101)七月、次男対馬守義親が反乱、また三男の義国が嘉承元年(1106)六月に事件を起こすなど、義家 の中央官界での地位が危ないものになっていった。
 最後は嘉承元年(1106)七月、京の邸宅で死去し、この地に葬られた。

 【 歴史街道 国指定史跡・源義家の墓 みなもとのよしいえのはか(1039〜1106) 羽曳野市 】




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「源氏墓」からの帰り道。ちょうど、畑に梅が咲く時期であった。



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