のむのむの「西洋事情」 1999.8/27〜9/10
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追伸

秋の訪れの早いヨーロッパから

熱帯の国、日本へ

‥‥‥

で も ね

日本のすばらしさと大切さを

つくづく 感じています。




アルスター湖の夕暮れ (ハンブルク、ドイツ)

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8月26日(木)

出発前日

   2冊の本とともに旅に出る。本屋まで行ったが、新たに読みたいものが見つからない。ここまで読み過ぎたとも思う。だから、それでいいと思っている。‥‥いろいろと、持って行くものが追加されていく。かなり重いぞ。駅の階段だけはしっかり持ち運ばなければならないので大変だ。(ちなみに、実際に旅に出て気がついた。ボクの荷物は2番目に軽かったはずだ。ところで、一番の方には及びもしない。よいっちゃんは、誰が見ても、もうすっかり天才的!でした。) 最後の晩餐は大変満足できるものだった。まったけごはん、まったけ入りのおすまし、サヤインゲンのゴマ和え、冷ややっこ、旬の焼き秋刀魚に酢橘を絞って、最後は麦茶ということだ。アルコールはない。特別のごちそうというわけではないが、この味と幸せがあれば、15日間我慢できるカナ。

8月27日(金)

時差

 関西空港発9:40、フランクフルト着14:35。時計を日本時間からヨーロッパ時間に切り替えると所要時間5時間ということになってしまう。実際には12時間かかっているから、とても長いフライトだった。時差7時間(ヨーロッパはサマータイムを採用している)をどうやって克服したのかを書いてみよう。  関空を飛び立ってすぐにヨーロッパ時間に切り替えたので、そのつもりでこの一日を過ごした。早朝 2:40に出発したのだと体に思い込ませることにしたのだ。異様に長い朝があったわけだが、家から関空までの移動や結団式、搭乗手続きで時間を使い、機内でようやく朝食をとり、やがて昼食をとり、昼過ぎに着いたと考えることにした。  時間の計算を無視すれば、窓から外の明かるさがいつも見えたわけだが、太陽よりも早く出発し、途中太陽に追い越されたけれど少しの遅れでドイツに到着したと考えた。時差ボケなるものをさほど感じることなく、夕刻にはフランクフルト郊外のヴィースバーデンにたどり着くことができた。長い余分の時間をいただいたが、いずれ返すことになるのだね。



 日本と違い、炭酸入りの硬水である。もちろん雑菌など入っていないビン入りの水だが、飲めたものではない。「ノン・ガス」といったところで、少量の炭酸は入っている。我慢して飲んだことはあったが、やはり無理だ。ただし、ドイツでもロシアでも、ビン入りの軟水はちゃんと手に入る。ときにはビールやワインとほぼ同じ値段である。まあ、お金と健康には替えられないからね。この水で、4日連続して「味噌汁パーティー」を催したわけだ。

ギョエテ

 到着後の少しの時間を利用して、この町を散歩した。メインストリートを気持ちよく歩く。みんな半袖だ。途中、美術館前の石像の前で写真を撮る。ドイツ人の老夫婦が通りかかったので、石像を指さして、「Who is he?」なんて聞いてみた。するとドイツ語で答えてくれた。初めは何だかわからなかったけれど、「ギョエテ」は「ゲーテ」のことだと理解できた。本物のドイツ語だ。おまけに写真まで撮ってくれた。ありがとうございました。「ダンケ・シェーン」だね。

8月28日(土)

おいしかった朝食

   バイキング・スタイルで、結構品揃えもあり、おいしく、たっぷりと食べられた。自分で好きなものを選ぶことができるし(食材も日本のホテルとほとんど変わらないし)、特にドイツのパンはおいしかった(ロシアはそうでもなかった)。朝からオレンジ・ジュースやミルク、コーヒーや紅茶を飲み、特にデザートのブドウがおいしかった。たいていはヨーグルトと共に食べるものだけれど、ボクはヨーグルト味が好きではないから、生で食べたけれどね。実は、香辛料たっぷりの脂っこい昼食や夕食の連続には、まいってしまったということもある。食は文化だね。われわれには、あっさり味がいいのだと納得してしまう。

ゲーテ生誕250周年の日

 たまたまである。この日がゲーテの誕生日で、いろいろの催し物があり、フランクフルトの中心部にある「ゲーテ・ハウス」も人でいっぱいだった。「若きヴェルテル(ドイツ語風)の悩み」だけは読んで行ったけれど、彼は今でもこの国で多くの人々の尊敬と注目を集めていると思った。やがて、彼は多くの小説を書いたこの地を出て、ワイマールで政治家、法律家としても活躍するのだけれど、故郷の地の「記念館」を大切に遺したドイツ人は心憎いと思う。何よりも詩人であり、小説家であり、もちろん情熱家であったゲーテこそ、偉大であったと思うから。

あこがれの菩提樹

 日本人が「さくら」なら、ドイツ人は「菩提樹」と本で読んでいたから、本物の「菩提樹」だけはしっかり見て来ようと思っていた。現地通訳、ドイツ在住の方に早々と「リンデンバウム」を教えて欲しいと言っていたところ、「ゲーテ・ハウス」の中庭で、初めて確かめることができた。しかし、こんな狭い中庭にあってはいけないと勝手に思った。それで、ヴィースバーデンに戻ったときに美術館横に並んでいた「菩提樹」を見て、少し安心した。ライン川下りの町であるリューデスハイムで、広場の真ん中に立つ「菩提樹」を見て、本当に安心した。ボクのイメージしていた「菩提樹」と広場と教会、人々はここに集い、憩いを求めたはずなのだ。ボクにとっては、やっと巡り会えた恋人だね。とても嬉しい。

ヨーロッパのライス

 食事の度に、ライスが出てくるような気がする。数えてはいないが、本当である。われわれが米食の日本人だからかと思ってみたが、ドイツ人も食べている。ウーン、おいしくない。だから、朝だけは絶対食べなかった。もちろん、長細い「インディカ」種である。ぱさぱさで「ジャポニカ」種独特の粘りも甘さもない。どうも、みんなソースをからめて食べているようだ。それなりの味だが、これほどライスが続くなら、じゃがいもまみれの方がましだと勝手に思っている。おいしいと言っている人もいるから、個人差かな。またまた、食は文化であるとボクは居直っている。

8月29日(日)

英語で寝言 

 最初のヴィースバーデンのホテルがひどくて参った(他のホテルはいずれも最高だったのにね)。ともかく狭くて、おまけに3人部屋である。急遽別の部屋を用意してもらい、結局ボクは2人部屋となったが、まあ他人と同部屋となって困るのは、鼾がうるさいという類の話である。本人は知らないのだけれど困った話である。今回は寝言のことである。ウーン、ボクが時々寝言を言うというのは、結構聞いていたし、また自覚症状もあるのだが、朝起きたときについに言われてしまった。「何か、英語で寝言を言ってたぞ。」 ウーン!   ところ変わって、ロシアでもまた別の方に言われてしまった。「ロシア語で寝言を言ってたで!」 ウーン! 国際的! しかし、機先を制せられるとはこのことで、本当は「せんせい(何故かついこう言ってしまう)の鼾で、全然眠れなかった」と言おうとしていたのに、言葉がしぼんでしまった。かくして、しばらく寝不足が続いたわけである。

寒かったライン川

 昨日はずっと半袖で過ごせたから、今日も半袖のTシャツに念のため薄いジャンパーを羽織って出かけたのだが、ライン川は寒かった。ライン川を見たことはすっかり感激なんだけれど、本当に寒かったのである。川下りの船に乗り、甲板のいい場所を占拠し、行き交う船や川沿いの港町やブドウ畑や古い城跡やローレライの難所など眺めたわけだが、川風がとても寒かった。ロシアも含めたこの旅の中で唯一、セーターが欲しかったところである。つい、甲板を離れて船室でコーヒーなど飲んで体を温めた。そのくせ、ハイデルベルクを訪ねたときは、強い夕日に暑さを覚え、半袖に戻った。日本の湿度の高さとヨーロッパ(西岸海洋性気候)の乾燥の違いを見たような気がする。



アウトバーン

 ヒトラーが遺した唯一の財産はアウトバーンであると通訳の方が言った。なだらかな丘陵地帯や広々とした北ドイツ平原を通るアウトバーン(高速道路)は、日本のようにトンネルはなく、橋桁もなく、戦前にほぼ出来上がっていたわけだから、建設費もさぞ安くついたと思う。もちろん通行料は無料である。料金所がないから渋滞もない。バスは100キロ、トラックは90キロの速度制限があるが、乗用車は速度制限なしである。高いお金を払い、渋滞にイライラし、ちょっとスピードを上げると違反となるわが日本と比べると天国である。もちろんドイツである。ベンツ、フォルクスヴァーゲン(ドイツ語風)、BMW(ベー・エム・ヴェー)、ポルシェなどドイツ車が圧倒的に多いが、TOYOTAやHONDAもたまに見かけた。おおむね日本車の評判はよいそうだが、同じ値段ならドイツ車を選ぶとのこと。日本では安い車もいざ輸入となると高いようだ。現地生産はどうなっているんだ?と聞いておけばよかったな。

8月30日(月)

自分のイニシアチブ

 フランクフルト市の私立モンテッソーリ学校「アンナ・シュミット校」では、「大人になってからの自立」「自分のイニシアチブ」を育てること、「自由と義務」を重んじ、他人に迷惑をかけない子どもを育てることを目標に、幼・小・中・高一貫の教育を推進している。幼児からの教育の大切さを教えられた。肌の色は真っ白で、目が青く、まるでお人形さんみたいな子どもたちだった。突然の異邦人に少しは気を取られた子どもたち(幼稚園児)もいたが、「みんな同じに」でやっている日本とは違って、もうすでにこの年齢から「他人と違う自分」に気づかせようとしているあたりが根本的に違うのかもしれない。大変だよ、小手先の改革ではだめだね、歴史と文化の違いだねと、またまた思ってしまう。安易に飛びついてはだめだということでもあるんだよ。

きれいな町の汚れた道 

 ドイツは環境保護の先進国である。酸性雨、原子力発電、ダイオキシンと土壌汚染、ゴミ処理とリサイクルなどテーマは多い。それを勉強したいというのが、今回のボクのテーマであった。しかし、この問題への本格的なアプローチは不可能だった。というか、このテーマでの研修ではなかったと諦めた。いつの間にか、本来の教育事情の視察、個人的には気候・風土と歴史・文化を訪ねる旅となってしまったのだ。  それでも、気づいたことだけはまとめておきたい。町の中のあちらこちらにゴミ箱が設置してある。紙などの燃えるゴミとビン・カン類、その他の分別収集が行き届いている(これは最近、日本でも見かけることができるようになった)。学校では、社会・生物・化学の授業で環境教育を行い、国や州、市単位の環境に関するそれぞれのプログラムと取り組みを持っているとのことだ。ドイツ北部では風力発電所を見た。ハンブルクの学校で校長先生のお話を聞く機会があったが、薄暗い会議室であった。仲間の一人が「電気(灯り)をつけないのですか?」と聞いたところ、「このくらいならつけないよ。電気(つまりエネルギー)の節約になるし、節約した分、お金が戻ってくるからね。」と当然のようにお話ししていただいたことが印象的だった。しかし、ヴィースバーデンの旧市街も、カッセルの繁華街も道路はみんなの捨てたゴミできたなかった。学校の掃除も清掃業者にまかっせきりで、汚れていても誰も気にしない。  なるほどね。せめて、誰もいない教室の電気(灯り)は消したいし、学活等が終わっても点けっぱなしというのだけは止めたいね。「オイル・ショック」の頃の節約ムードを忘れてしまっている。一方、自分たちで使う教室や廊下などは自分たちできれいにしようとか、ゴミに気がついたら自分で拾うとか、ボランティアの道路清掃とか、この公衆道徳という件に関しては、(教師の労働過重の問題を除けば)日本の方がいいと思う。自信を持ってね。

じゃがいも

 ドイツではじゃがいもが主食であると聞いたが、そうではなかった。主食は、どう考えても肉である。豚肉が多かったが、牛肉も鶏肉も出た。彼らは狩猟民族であり、肉食の民族である。その付け合わせにじゃがいもが出て、つなぎにパンを食べるというのが実感である。といっても、まともなじゃがいも(でかいのが2つ、とても食べきれない!)に出会ったのは今日が初めてである。じゃがいもはフォークだけで食べよう、ナイフで切ったりしてはだめだ、マナーに反すると勝手に言ってはみたが、本当かどうかはわからない。ともかくだ。塩分が随分濃いようだ。ハーブの使いすぎだ。こってり味だ。「岩塩だから大丈夫だ」とか、「ビールを飲むようにできている」とかどなたかがおっしゃられた。そうかもしれないが、素材の味は生かしたい。ヨーロッパ人による新航路の発見と世界征服は、この香辛料を求めたことから始まった。止めとけばよかったのに‥‥と、ボクは非科学的なことを考えている。

8月31日(火)

どこもみんな一貫教育

 カッセル市の郊外にある国立のオープンスクール「ビーレフェルト実験学校」では、壁のない、さまざまなコーナーが設けられた、その施設の広さと効果をしみじみと感じた。高校生たち?がグループに分かれて、それぞれの学習に熱心に取り組んでいる姿が印象的だった。ここでも、4歳児から大学までの一貫教育である。少なくとも中等教育を中・高に分けるという制度はドイツにも、ロシアにもないようだ。  オープンスクールに関しては、随分以前に日本のある学校を見学したことがある。新設校の建設に関わったときの話だ。日本では、土地の広さや建設費が当然問題となる。だから、一部の例外はあるとしても、当分公立の学校では実現できないだろうと思う。ただし、個別学習の大切さを意識した別の取り組みは、もちろん可能である。



カッセルの森

   午前中、ヘラクレス記念碑を臨むカッセル郊外の森へ行く。レーゲンスブルク城にてデジタルカメラによる撮影を楽しみ、ヴィルヘルムヘーエを眺める。ともかく、森がいい。まるで新緑のときのような、穏やかさの中に安らぎを感じさせる、りっぱな広葉樹林の連続だ。ハイキングの子どもたちや若者が集まる。大いなる緑の中では、すべてが小粒で緑の中にとけ込んでしまっている。とてもいい。森と散歩とリフレッシュだ。「森の国」ドイツを象徴するかのような立派な木々に囲まれて、多くの偉大なる先人たちがさぞかし、もの思いに耽り、思索し、心の痛手を癒したに違いない。カッセルがいいとすれば、この森以外にない。温泉もある‥フム?

グリムとフランクフルト国民議会

 カッセルの町でグリム記念館を訪ねる。子どもたちが小さかった頃、妻と交代で子どもたちを寝かしつけながら、グリムやアンデルセンやイソップなどを読み聞かせたことを思い出した。どの話がどの童話であったのかなど、とうてい思いだせはしない。折りしも「本当は恐ろしいグリム童話」なんてのがベストセラーになっているが、読む気にもなれない。ヤコブとヴィルヘルムの兄弟がいて、ヤコブはフランクフルト国民議会に参加している。グリムとフランクフルトがつながったことの方がボクには興味がある。1848年、フランスの2月革命に影響されて起きたベルリンやウイーンの3月革命が失敗に終わった。しかし、この国の統一と近代化を求めたドイツ全土の知識人たちがフランクフルトに集まり、気勢を上げたわけである。ただし、プロシア国王は、市民による統一ドイツの盟主への推薦や民主主義など信用せず、「上からの改革」を推進したのである。むしろ、ビスマルク首相の「鉄血政策」を際だたせる結果に終わったのである。この国こそが明治国家の理想であったことをわかっているかな?  フランスやドイツが革命と民主主義思想に沸いているとき、「すべての国々のうちでもっとも停滞した国‥‥ヨーロッパの中国」(エンゲルス)であったロシアでは、1849年若き日のドストエフスキーが逮捕され、銃殺刑の宣告の後シベリアに流されている。サンシモン、フーリエのとるに足らぬ穏健的な思想に共鳴を受けた若者たちの読書会で、ある書簡を朗読したというだけの理由である。何も起こらぬことへの煮立ちの中で、その憤懣をささやかな読書会で濁していたペテルブルグの知性を、ニコライ1世は許さなかったのである。前にも書いたが、まるで「大逆事件」だね。こじつけは何でもよかったわけだ。権力者はいつも、己の人間性を最低で、最悪なものにする。皇帝陛下の「慈悲」を演出するために、人の生命をもてあそぶことの醜悪さに気がつくこともない。

寂寥たる北ドイツの平原

 ビーレフェルトからハンブルクに向けて、3時間かけて、アウトバーンを走る。いよいよ、果てしなく広がる北ドイツ平原だ。中部ドイツの丘陵地の明るさとは違う。眺望が遮られ、何故か寂しく、暗く、牧草地ばかりが繰り返す。海に近いためか、偏西風を頼りのささやかな風力発電所も見える。夕闇迫る風景に突如あらわれるエリカの花がとても淋しい。その昔、氷河に覆われた北の平原は、ドイツの化学をもってしてもかなわぬ単調な農業地帯をつくってしまったようだ。中部ドイツが、ブドウ畑やじゃがいも、てんさい、小麦、牧草地などの緑なす絨毯模様の「十勝」や「北見」とすれば、北ドイツ平原はさぞかし「根釧台地」という気がした。地理学の世界では、中部の混合農業と北部の酪農地帯ということになるのかな。結論が先にありき、ということにならなければいいが。 

9月1日(水)

「テュース!」(港町のトルコ人)

 ハンブルク市では、公立の「ゲザンツシューレ・キルヒドルフ(小学校)」を訪れた。折りしもその日が入学式にあたり、われわれの参列と紹介、そして「さくらさくら」の歌まで演出していただいた。授業の参観もさせていただいたが、トルコ人の子どもたちの多さと人なつっこさが目に付いた。ドイツ最大の港湾都市であり、多国籍で労働者階級が多いハンブルク市の「8時から13時まで学校にいられる権利」や「いじめ問題」の取り組みなど、この州独自の課題があることを学んだ。「テュース」とは、そのとき子どもたちがしきりに使ったドイツ語である。通訳の方に聞いて、綴りも意味も分かった。「ヴィーダーゼーン」よりはフランクな「じゃあね」「ばいばい」といった感じの言葉だそうだ。この後ボクはこの「テュース」を愛用することとなったのである。

誰も来なかったレセプション

 ドイツは16州からなる連邦国家である。このうち、ベルリン、ハンブルク、ブレーメンの3市はそのまま、州でもある。中世の自治都市の伝統をそのまま受け継いだかのようなものであろう。上記の「インフェルダー・シュトラーセ小学校」の校長先生は、そのままSPD(社会民主党)の市会議員でもある。したがって多忙な方であるようだ。予定していたはずのレセプションは空振りに終わった。期待していたが、無くてほっとしたという気分である。しかし、うやむやに終わるのもよろしくなく、団長(断腸)の思いで一通り型どおりのレセプションをわれわれだけでやった。この意地というのも全く悪くないものだと感心した。

洗濯のすすめ

 15日間の旅に15日分の、たとえば下着をもっていくとなると大変である。ボクの場合は着ていったもののほかは、7日分だけ持っていくことにした。乾燥しているから汚れも少ないが、やはり毎日着替えたいものである。従って、暇と余裕のある限り、洗濯をすることにした。夜中に洗濯をして、次の日の夕方にはきっちり乾いている。ヨーロッパの旅には、洗濯がお似合いだと思った。これが日本だといつになったら乾くだろうかと心配したかもしれないからね。

9月2日(木)

自信を失った方向感覚

   ボクは方向感覚には絶大なる自信があった。どこに行ってもほぼ完璧に目的地までたどり着ける。なあーに、社会科の教師だからね、とすましていたものだ。ところが、ドイツではこの方向感覚が狂ってしまったようである。ブラームス記念館には行かないことに決めたはずなのにそこにたどり着き、市庁舎に戻っているつもりなのに遠ざかっているというヘマを犯した。ついに、道行くドイツ人に道を尋ねることになってしまった。それからは、わが同僚について行くことになった。ああ、なさけなや!なさけなや!このことを最後のフランクフルトでもやってしまった。思いこみの怖さ、間違いを知ってしまったわけである。これこそ本当の「断腸」の思いである。



ザ・ボディガード

 ヴィースバーデン、カッセル、ハンブルクとボクの相棒は組長である。安心だねとみんなから言われる。そうだとボクも思う。ハンブルクで方向感覚が狂ってしまったときも、彼のおかげで助かったし、目的のお店にたどり着くこともできた。ありがたや。ありがたや。そのときだけでなく、彼は常にみんなのボディーガードを務め、重宝がられた。強面でありながらくりくりとしたお目々で、まつげが長く、お茶目でかわいい面をさらけ出すこととなり、女性陣の人気は絶大であった。ウーン!どんな顔で授業をしているのか?いまだに謎である。つい「レオンみたいだね」なんて言おうとしたが、止めてよかったと思っている。



ハインツさんのだるま落とし

 ドイツ国内で長らく運転手を務めていただいたハインツさん、気さくで明るいお人柄はこれまた、人気絶大。英語で、われわれと会話もしてくれる。ドイツ人の話す英語は、日本人の話す英語と同様、聞き取り易いなと思った。彼が感心していたことの一つは、日本人は4つの文字を使いこなすということだった。漢字・ひらがな、カタカナ、ローマ字のことである。本当にすごいと感心し、不思議がっていた。これは威張っていいかもしれない。彼の特技の一つは、日本人と中国人と韓国人の違いがわかることだ。「日本人が一番いい」と言ったが、外交辞令かどうか?ボクがオーストラリアで感じたことは中国人も韓国人もともかく、うるさい!ということだ。あたりかまわず、自国語でわめき散らす。日本人は英語が分からないからと、控えめである。静かである。ただし、ドイツにおけるわれわれジャパニーズも結構うるさかったに違いないが。  ハインツさんとのお別れの日に、ささやかな日本のお土産をお渡しした。その中の一つが、だるま落としである。これは見本を見せなければと、やって見せたが、うまくいかない。ところが、初めて試したはずのハインツさんが見事にやってのけ、まるで子どものように、得意げである。こちらは恥ずかしい思いでいっぱいである。もちろん、記念撮影をした。ありがとうございました。お孫さんとだるま落としで遊んでいるかな?

9月3日(金)

危機感いっぱいの空港と寂しい都市(マチ)

   いよいよロシア連邦への入国である。どの顔にも緊張感があふれている。にこりともしないロシア人の厳しいチェックがあるに違いない、モスクワでは爆破事件があったからね、などとこちらまで構えてしまった。ようやく、手続きを済ませたが、空港で見るロシア人のどの顔も、不気味に見えた。おまけに、夕暮れ時というほどのこともないのに、町も木々までも薄暗く単調で、道行く車までが薄汚れている。マフィアの薄汚れた手練手管の餌食になりはしないか、ホテルのシャワーは無事に出るだろうか、栓はあるのだろうかと心配はつきない。ボクらのサンクト・ペテルブルグ訪問はこうして始まった。しかし、すべてではないが、杞憂であったことは確かだ。この後、ボクはこの町が随分気に入ってしまったのだから。 

おまけのサングラス

 たばこの話である。職場での禁煙は5月以来守ってきたが、夏休みであり、外では別である。だから確実に本数は増えている。ただし、オーストラリアではホテル内外のレストランはみんな禁煙だったし、体調の悪さもあって、6日間で2箱という快挙を成し遂げたのである。だから、今回のヨーロッパでも減らそうと思い、7箱だけ持参した。つまり、2日で1箱の計算である。ところが、レストランでの禁煙はなく、少々気を使うことがあったとしてもふつうに吸える。これが過ちの源である。結局、空港の免税店で1カートン買ってしまった。そのとき、どの銘柄にしようかと迷っていたところ、お店の人がサングラスのおまけの付いたたばこを勧めてくれた。安いし、思わず買ってしまった。サングラスをかけてみると、似合うよと言ってくれたから、その気になって、ロシアより愛用することになった。度が入っていないから、近視故、遠くが見えなくて困ったけれどね。ボクの元々持っている度入りのサングラスは、もっぱら薄い色のものばかりだったから、濃いサングラスで表情を読みとられないのはいいかも、なんて思ったりもして‥‥。

持って行くならこんな日本食

 サンクト・ペテルブルグでは、4日連続で「味噌汁パーティ」なるものを催すことになった。わが部屋においてである。これは、同室の方が日本から変圧器つきのコンパクトなポットを持ってきたからで、念のために申し上げておくが、決してボクの魅力によるものではない(笑って!)。別の方も同じくポットを持参していたから、2台がフルに活躍することになった。ボクの持ってきた「料亭の味」なるフリーズド・ドライの味噌汁と豚汁はおかげでさばけてしまった。誰もが日本から持ってきたものを再度持ち帰ったりしたくはないから、ありとあらゆるものが集まってきた。水やワイン、ウオッカ、キャビアその他のお菓子類は、夕食時のものやホテル近くのスーパーで買い出ししたものもあったから(ちなみにロシアの食料品や地下鉄料金などは随分安いことがわかった)、品数は豊富であった。  日本から持ち込んだものに話を限定するが、味噌汁関係のほか、おすまし、煎茶、お粥、おにぎり、おかき、都こんぶ、チキンラーメンなど書ききれないほどである。記憶の定かでないものもあるはずだ。これらのうちで大変おいしいと思ったものは、ボクの場合、海苔つきのおにぎりとチキンラーメンであった。タカちゃんと団長さん、ありがとうございました。

9月4日(土)

ロシア語の勉強

   こちらに来てからではあるが、ロシア語を勉強してやろうと思った。といっても決して、本格的にではない。いくつかのあいさつと単語である。それにロシア文字の読みを覚えたいと思い、それを書き込んだメモを片手に歩くことにした。これは随分便利で、通りの看板やお店の名前などが読めるようになると、英語風に置き換えて意味が分かったりするから嬉しくて仕方なかった。かくして、ぼくの拙いロシア語のお勉強が深夜に行われたのである。アルファベットの「R」や「N」を逆さにしたような変なロシア語ではあるが、その名誉にかけて言っておく。アルファベットを逆さにしたのでもなく、誰かがアルファベットを誤って伝えたのでもなく、ヨーロッパ文明の故郷であるギリシャから直接学んだ言語だったのである。ロシア語のフォントがないから、ここにいろいろ書けないのが残念だが、「H」を「N」と発音し、「P」を「R」と発音し、「R」の逆さを向いたものは「YA」と発音するなど、楽しいと思いませんか?

エルミタージュより宮殿前広場

 世界に誇る「エルミタージュ美術館」は、歴代皇帝の住居である「冬の宮殿」を利用したものである。ここを約2時間で駆け足で見て回った。通訳のワジモ(マ)さんのおかげで、もっとも効率よく、見て回れたと思う。3階のフランス印象派の作品だけはもう少しゆっくり見て回りたかったと思う。がしかし、ボクにとっては、エルミタージュよりも宮殿前広場である。この広場に、ことある度に、多くの人たちが集まったに違いない。1905年の「血の日曜日事件」や1917年の10月革命(ロシア革命)もここが舞台であった。人々の喚声とどよめきが聞こえてきそうな、歴史的な舞台にいることにボクは一人、感動を覚えていた。広場の真ん中に立つ「アレクサンドラ柱」は、ナポレオン戦争勝利を記念したものである。ねえ、すごいと思いませんか?



 ここを離れた「スモールニィ修道院」には10月革命の本部が置かれ、最初の「ソヴィエト」が結成されたはずだ。デカプリスト広場も、若くしてロシアの民主化を求めた貴族たち(1825年デカプリストの乱)の処刑の場だったりして、どうにも血が騒いでしまった。今、ロシアでは革命が否定されてしまっているが、血気にはやる若者たちが、名も無き民衆たちが立ち上がって過去の蛮政を打倒し、世の中を自分たちの手でつくり上げていったという事実まで否定することなどできやしない。為政者の手で、歴史を改竄することなどできるはずがない。変わり身の早い連中はいつの世でも信用してならない。

9月5日(日)

ピョートルとエカテリーナ2世

   世に女傑という者がいるとするなら、エカテリーナ2世もその一人であろう。イギリスのエリザベス1世やオーストリアのマリア・テレジャなどと同様、いわゆる絶対王政の時代である。侵略、抑圧、反革命の大好きな人であった。彼女は都サンクト・ペテルブルグをつくったピョートル大帝をかなり意識していたように思う。負けないぞ!というか、跡継ぎは私だぞ!というか、間に挟まった俗物的な皇帝とは確かに違う。純粋なロシア人ではなく、元をただせばドイツ人ということがあったのか、なかったのかはわからない。ともかく、だ。ロマノフ王朝5代目の皇帝がピョートル(在位1689〜1725年)であり、エカテリーナ2世は12代目にあたる皇帝(在位1762〜96年)である。たったの40年ほどしか離れていないわけだけれど。決して、エカテリーナ2世は、ピョートルの妻でも、子どもでもないことをあきらかにしておきたい。結構勘違いをしている方が多かったみたいだから。アメリカの独立(革命)やフランス革命が彼女の時代である。もちろん、彼女が革命など認めるわけはないけれどね。この「知性と放蕩の女帝」のコレクションが「エルミタージュ美術館」の元になったのだ。  日本の漂流民として稀有な存在である大黒屋光太夫が謁見したのも、彼女だった。エルミタージュにあるエカテリーナの乗ったという「馬車」は光太夫も見たはずだとワジモ(マ)さんは言った。彼にいろいろ聞いたわけだが、生半可な通訳ではなく、日本やその歴史についてもよく知っているお方で、ユーモアたっぷり、気がつくとすぐにすてきな女性に声をかけているような大人物でもあったが、ボクは彼からいろいろ聞けて大変嬉しかった。本気で、スパシーバ!だね。(別れの空港では、いつまでも、いつまでも僕たちに手を振ってお別れをしてくれた。でも、きっと次の瞬間にはきびすを返して、次のお客を待っていたと思う。「わたしの名前はワジモ、でもワジマと呼んで欲しい。」なんて、また、言うんだろうなあ。)  ピョートル大帝についても書きたくなった。37年間に渡って皇帝の地位にあり、ヨーロッパに対する引け目とあこがれと遅れがあった時代に、田舎の国ロシアのヨーロッパ化、近代化を推進した人物である。サンクト・ペテルブルグは、ヨーロッパに向けられた玄関として、彼により建設された都である。若くして、皇帝の身であることを隠してオランダに渡り、一職工の振りをしていろんな工場を見て回ったとのことだ。そのとき、好奇心旺盛な(ときには異常とも思える)彼は、きっと目を爛々と輝かせていたに違いない。戸惑う部下たちをものともせず、ロシアの因習と無能な部下どもをどんどん切り捨てていったに違いない。乱世の英雄、生まれついての皇帝、アイディアマンというところは、信長とそっくりだと思いませんか? こんな魅力的なリーダーは、滅多にいない。お目にかかりたいが、まあ、ボクのことだから切り捨てられているかも知れないし、ついていけないような気もするね。けれど、好きだね。(結構、矛盾の塊) 

「フォンタンカ」と女学生

 ピョートルの「夏の宮殿」(普通は5〜8月の4ヶ月間の滞在である)へ行く。豪華な金細工を施した、立派な部屋を見学した後、面積の広い庭園を歩いた。噴水が立派で、高くそびえる木々の間を心地よく散歩する。至福のときである。まあ、ちょっと遊んでしまって噴水の水をしっかり被ったりはしたが、そのことよりも、きれいな女の子(女学生風)から水彩画を買ってしまったことの方が大事だ。「フォンタンカ」運河の絵だということでさらに気に入ってしまった。のむのむを落とすのは簡単だね。(この旅の前に、ドストエフスキーの処女作である「貧しき人々」だけは読み直しておいた。「フォンタンカ」が登場する。) 



「ジゼル」を観る

 ここまで来たからには、バレーが観たい。女性陣の発案である。文句はない。エルミタージュ劇場でそれが実現した。おまけにオーケストラの演奏が、楽譜までが手に取るようにわかる最前列であった。舞台が目線の上にあり、踊っている人の足下が見えにくいなどと文句を言ってはなるまい。最高だった! みなさん、感激だったみたいだね。超一流のマリンスキー・バレー団のバレーを観たわけだから。ハプニングというか、アドリブというか、旅には余計なオプションが必要な気がする。

9月6日(月)

ラスコーリニコフの下宿 

 サンクト・ペテルブルグの自由時間に何をしようかと考えていた。ネフスキー修道院で有名人(ドストエフスキーやチャイコフスキーとか)のお墓参りをしてみようとか、ロシア文学記念館とか、薄気味悪そうなクンストカーメラ(自然史博物館)とか、デカプリスト広場で「青銅の騎士」を見ようとか、ラスコーリニコフ(「罪と罰」の主人公の名前)の下宿がいいかなとか、いろいろ考えた。買い物をしようなんてこれぽっちも考えなかった。どこから出発してどこに集合するのかが、この場合重要だったのである。余り遠いと無理になってしまうからである。勝手に、エルミタージュのある宮殿前広場かなと思っていたが、違っていた。  ネフスキー通りの中央付近にある広場のエカテリーナ2世像前が集合地点となった。最悪だった。45分間でどこに行けるのだ。ひとまずデパートに入ったが、ボクはすっかり腐ってしまった。そこで、タカちゃんに相談して、2人で「ラスコーリニコフの下宿」を探そうと決めた。往復45分間歩き続けた。「旅の歩き方」を信用して、カザン聖堂からそのままカザンスカヤ通りに入り、どんどんちょっと恐い雰囲気のする道を進んだ。貧しい大学生だったラスコーリニコフが住んだに違いない、薄汚れた感じのアパートが続く。時計が気になりながら、表示はなく、まあこのあたりに違いないと勝手に決めて、記念撮影をして帰った。5分ほどの遅刻だったが、他のメンバーはもっと遅れてきた者がいたようだ。もう少し時間があったらなあとつくづく思った次第である。  この後で、通訳のワジモ(マ)さんに尋ねたところ、目的地に達していないということがわかった。100メートル以内には達していたが、きちんと表示がしてあるとのことだ。がっかりだが、後悔はしていない。もし、行かなかったらもっと後悔しているからね。それに、「スコラ・ローザ(バラの学校)」のマリア先生に話したところ、写真を持っているから日本まで送るよ!とおっしゃっていただいたから、当てにしないで待つことにする。ボクの日本語の名刺をお渡しした。英語版の名刺も作ったが、彼女は日本語の先生だからね。ドストエフスキーにまつわる話だが、ネヴァ川も、フォンタンカ運河も、ペトロパブロフスク要塞も見たから、ひとまず充分だよ。  

初めてのレセプション

 ドイツでのレセプションが空振りに終わったので、今回が初めてのレセプションとなる。ただし、予定が変わって訪問前日の親睦を深める会となり、レストランの一角を使ったものだったので、こじんまりと食事とおしゃべりを楽しむということになった。「スコラ・ローザ(バラの学校)」の7人の方が見えられたが、ボクの座った席は日本語を教えていらっしゃるマリアさんが同席されたので、もちろん日本語での会話が進み、大変よかったと思う。「ラスコーリニコフの下宿」の話もできたし、つっこんで、ゴルパチョフからエリツィンのことまでもお話ししていただいた。別の席では、英語でおしゃべりできたところもあるが、ロシア語しか話せない方もいて困ったところもあったようだ。翌日の訪問が楽しみになった。

9月7日(火)

スコラ・ローザ

 サンクト・ペテルブルグ市では、日本語の授業を取り入れている公立の「スコラ・ローザ(バラの学校)」を訪問した。そこでは最大の歓迎行事をもって迎えられた。子どもたちによる日本語のあいさつ、歌と劇、弁論を演じてみせてくれた。ここでも、学校独自の取り組みのすばらしさを感じることができた。ついでに書くと、校章はバラの花と折り鶴、校歌は「バラが咲いた」だよ。ご存じ、浜口蔵之助作曲、マイク真木が歌ったあの歌だ。バラが咲いた、バラが咲いた、真っ赤なバラが‥‥というあの歌だ。嬉しくなってくるね。スペインの「サダコ学園」のことを以前に紹介したが、覚えているかな?日本文化や「ヒロシマ」が世界に息づいていることを知ることは嬉しいことだね。僕たちは、お返しにロシア語で「バラが咲いた」を歌ったのだよ。拍手喝采となったかどうか、夢中だったからわからなかったけれど。

日誌当番のこと

 ボクたちは公式の報告書のほかに、日誌という形で仲間内のまとめをすることにした。1日ごとに書けば、強引に添乗員のN氏を含め、ちょうど一人1ページの割り当てになる。実は、記録係のボクが割り当てをしたのである。単純に名簿順に書くことにしたわけである。ようやく自分の番が来たが、どの日かについては当たり外れがあるかもしれない。今日がボクの日だ。予定通りだと、教育委員会の表敬訪問と再びドイツに戻る移動の日ということで、何を書けばいいのだと困ったのだが、予定変更のおかげで「スコラ・ローザ」訪問のことを書くことができてよかった。まあ、元々そんなに心配はしていない。いつでも、何でも書けるという困った特技?を持っているからね。ついでに書こう。ずっと毎日、記録をしてきたから、今こんな風にすべての日に渡って書けるのだよ。夏休みが始まって以来毎日かかさず、日記をつけてきた。その延長だから全然苦にならなかったわけだ。もちろん普段は書かない。

サンクト・ペテルブルグ讃歌

 サンクト・ペテルブルグへの愛着がますます増えていくばかりだ。4泊5日も居続けたわけで、その分たくさんのいい思い出をつくることができた。この都市(マチ)の空気と歴史と文化をたっぷりと堪能できたと思う。白夜のなごりの長い昼とは逆に、冬にはずいぶん長い夜を迎えることになるほぼ北緯60度の都市に住む厳しさも教わった。ネヴァ川、フォンタンカ運河、見つけられなかったラスコリーニコフの下宿、革命の血に染まったはずの宮殿前広場、エルミタージュ美術館と「ジゼル」、水をたっぷり被ってしまったピョートルの夏の宮殿、かわいい女の子から買ってしまった水彩画、「スコラ・ローザ」など、きっと忘れられぬものになると思う。



9月8日(水)

シュタイナー教育

 再びドイツに戻ってきたわれわれは、「シュタイナー教育」の実践を行っているフランクフルト市内の私立「フライエ・ヴァルドルフ・シューレ」を訪問した。ここでも「自由」をモットーに、保護者の協力のもとで学校運営が行われている。教科書がない・落第がない・五段階や十段階の通知票がないなどという独自の発想で、小・中・高の一貫教育を推進している。これを支えている先生たちの熱意と努力には感服するばかりであった。それと緑の多い広々とした敷地。でもね、日本でも可能だよ。小学校と中学校と高校とを1つにまとめれば、敷地もかなり大きくなるはずだね。クラス数が多いのと1クラスあたりの人数の多さが心配だが、近づくことは可能である。ただし、ドイツの余暇活動をささえる「クラブ」が学校外にあるということを差し引いて考える必要がある。それに、学校は昼過ぎに活動を終えるということもね。  ところで、われわれにお話ししていただいたのはターニャ先生だが、一緒に付き添ってお話しできたのが保護者のグロッツバッハさんだった。日本に興味があるというので同席されたということだ。日本語でお話しした。今、大学で日本文学の勉強をされている。「シマダ」の作品をテキストにしていると言った。「シマダマサヒコか?」と聞いたら、「そうよ。」と答えた。ボクの知っている人だったので、嬉しくなった。ボクが今、ゆっくりと読み進めているのが原田宗典で、彼と同じ世代の人だ。これから、読んでみたいと思う。ボクの世代とは違う感性を感じるからね。(通勤の電車の中で、読む楽しみができたと喜んでいる。難しくなければいいと思うのだが。)

盛り上がったレセプション

   レセプションのための部屋が用意された。少々うるさくてもかまわない。持ってきたすべてのお土産も、すべて処分?しなければならない。条件は整った。女性陣は持参の浴衣を着て登場した。返礼のスピーチから始めて、司会の式次第に従って、ひとつひとつのセレモニーが進行していく。河内音頭だけは結局実現しなかったが、みなさんのそれぞれ用意されていたものが滞り無く、楽しさを伴って行われた。ビンゴや折り鶴、色紙に筆でメッセージを書き込んだり、日本風のお遊戯とか、お招きしたドイツの方々に浴衣を着ていただいたりもした。ボクはもっぱら写真係を務めた。これで終わりかなと思ったら、突然日本が恋しくなった。少し前までは、もう少しヨーロッパに居たいと思ったのだけれど。突然だった。もういいかなってね。うまく言えないけれど、日本人に戻ることにしたわけである。 

9月9日(木)

ビジネス席に感激して

 狭苦しいエコノミー席から、ビジネス席に移れることがわかった。横も前も広々とし、右や左の肘掛けの中からテレビやテーブルなどを引き出す度につい声を上げてしまう。その喜びようは、まあ尋常ではなかった。まるで子どもみたいと言われそうだが、嬉しいものは仕方ない。2度の食事があって、ドイツ時間と日本時間のことを考えながら、ボクはこれまで書いてきたノートを整理していった。こんな席に座って寝てしまうなんてもったいないと思い、本来日本に合わせて眠りにつかなければならないことも無視して、しっかり起きていることにした。結局、このせいかどうかわからないのだけれど、時差ボケなるものを体験することになる。しかし、いろんなところで言ってしまったが、時差ボケなのか、本物のボケなのかわからずじまいで、ボクはいまだに夜も昼も眠たいのである。「時差ボケ」なる言葉が出てきたら、ご用心を!本人でさえどちらかわからないまま、居眠りに入るのである。午後が危ないとすると、いつも通りかな?

9月10日(金)

旅の終わりに

 「森の国」ドイツの自然や環境に対する思いがこの風土と歴史の中から生み出され、酸性雨やゴミの問題、リサイクルの取り組みなどにあらわれていると感じた。また、ほぼ北緯60度の都市サンクト・ペテルブルグでは、長くて暗い厳しい冬の訪れを前に、夏の太陽と世界に誇る文学や芸術を慈しむ古都の人々の生き様を見たような気がする。  自分だけの土俵で相撲を取るなかれ。このことをわれわれの戒めとしたい。世界史的レベルで21世紀の教育を展望したいと思う。われらは、力尽くさずして倒れることを辞す‥‥この意気込みを忘れず、ここを出発点として「各員一層、奮励努力」していきたいと思う。

9月28日(火)

さいごに

 かくして、ボクの15日間に渡るヨーロッパの旅はひとまず終わった。みなさんに伝えるべきことは、正しくは「報告書」に任せることにする。2ヶ月後には、日の目を見ると思うが、そのときには誰も見向きもしないかもしれない。ちゃんと本来の仕事もして来たわけで、そのことを強調して、4日間眠気と闘いながら書き綴った、いささか長過ぎるこの文章を閉じることにする。  最後になるが、ボクの今回の旅を支援し、支えて下さった皆様に御礼申し上げたい。たぶんまた、静かに物思いに耽るいつものボクに戻ると思うけれど、キュウリみたいに涼しい顔をしていようと心がけるけれど、どうしようもなく燃えあがる熱き血も密やかに持ち続けていたいと思っている。最後の言い訳としてネ。


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