ミステリーツアーに参加して

2007.12.23〜24



松代温泉に宿泊した



パンフレットだけで「松代ロイヤルホテル」宿泊を予想した







翌朝、観光バスは 「松代象山地下壕」 に向かった







集英社版『日本の歴史20』(アジア・太平洋戦争)を読んだのは



この旅行から帰ったあとだった







本土決戦にそなえて大本営は、天皇とともに司令部を長野県松代に移すことを考え始めた。1944年7月のサイパン陥落による絶対国防圏の 崩壊を契機に計画が立てられ、本土空襲が始まる1944年11月から工事が着工された。沖縄戦集結の1945年6月から工事は本格化し、敗戦の 8月には8割方完成していた。のべ300万人の労働者を動員し2億円の巨費を投じて、総延長13キロ、面積にして4万3000平方メートル、甲 子園の4倍に匹敵する壮大な地下工事が行われた。松代の舞鶴山・象山・皆神山などの地下に、天皇・皇后、大本営・政府・NHKなどの 報道機関、軍需物資倉庫などを移転する予定で計画は進められた。

松本大本営跡は、松代藩士であった佐久間象山の生家近くの象山に、松代象山地下壕としてその一部が現在公開されている。立て坑20本、 横坑10本の大規模な地下トンネルが碁盤の目に掘り抜かれ、ごつごつした岩盤が露出したままである。長さは立て坑が最大322メートル、 横坑が最大382メートルである。この大規模な地下トンネルは西松組・鹿島組によって、約7000人に及ぶ強制連行された朝鮮人を中心に建 設されたものである。彼らはこうりゃんと豆のご飯に塩をかけた粗末な食事で1日12時間、2交代制で働かされ、全長13キロのトンネルを わずか9ヶ月で掘り進み、1日平均6人が死亡したという。トンネル内には現在でも削岩機の先ロットが突き刺さって残り、岩盤に朝鮮人の ハングル文字による落書きが残っている。









「松代象山地下壕」案内図





朝鮮人犠牲者追悼祈念碑





「地下壕」入口





「地下壕」の中