九州ゆとりの夫婦旅 v.3

2011年6月14日(火)



橘湾に臨む「現在地」までやってきた。 元は千々石湾と言ったが、のちに橘湾と改称されたようだ。

日露戦争で、大隊長として遼陽城首山堡に出陣して壮烈な戦死を遂げ、後に軍神と讃えられた橘中佐の名からとったものである。 「よーよーとーと よはたけて〜」などというメロディをどこかで聞いたことがあるような? 調べてみたら 「遼陽城頭夜は闌けて 有明月の影すごく 霧立ちこむる高梁の 中なる塹壕声絶えて 目醒めがちなる敵兵の 肝驚かす秋の風」 などという軍歌 「軍神橘中佐の歌」だった。

長崎はもう少しだけ西に当たる。雲仙が長崎人の避暑地だったという言葉の感じが、地図からも窺われる。 このあたりは赤土が目立っており、じゃがいもの産地でもあるようだ。





千々石(ちぢわ)展望台。千々石というと「千々石ミケル」を思い起こしたのは、わたしだけだろうか? 四人の少年使節がローマまで派遣された有名な話なんだが、省略されたようである。 「原マルチノ」「中浦ジュリアン」もいたはずだが、もう一人の名が思い出せない‥。調べてみると正使の「伊東マンショ」だった。 彼らは活字印刷機械などヨーロッパの進んだ技術や知識を持ち帰り、日本文化に貢献した。 ただし、少年たちを待ち受けていたのは、キリシタンに対する迫害だけであった。

「天正遣欧少年使節」のその後(大村観光ナビによる)

正使 伊東マンショ
日向国(宮崎)都於郡(とのこおり)出身。 大友宗麟の遠戚にあたる。 四人の少年の中で最年長。 帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。 1601年マカオで神学を学び、1608年長崎で司祭となる。 布教活動の長旅で体を壊し、1612年、四十三才で長崎にて病死する。

正使 千々石ミゲル
有馬領千々石出身。 釜蓋(かまぶた)城主千々石直員(なおかず)の子。有馬晴信のいとこ、大村純忠の甥にあたる。 帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。 1601年頃、イエズス会を脱会。清左衛門と名乗り、大村喜前(よしあき)に仕える。 1633年死去。

副使 原マルチノ
大村領波佐見出身。 原中務(はらなかつかさ)大輔純一の子。 四人の少年の中で最年小。 帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。 1608年長崎で司祭となる。 布教活動を行うが、徳川幕府の禁教令によりマカオに脱出。 1629年マカオにて病死する。

副使 中浦ジュリアン
大村領中浦出身(現在の西海市)。 中浦領主中浦ジンクロウの子。 帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。 1601年マカオで神学を学び、1604年長崎に戻る。1608年、司祭となる。 徳川幕府の禁教令後も日本に残り、布教活動を続け、1633年、六十四才で長崎西坂にて殉教する。





千々石(ちぢわ)展望台から海岸(東部)を見下ろす。





バスに乗ってウトウトした後、目覚めたときに通っていたのは「諫早干拓地」の堤防の道だった。 ちなみに、3日目はバス後部(後ろから2番目)の席だった。





有明海西部にある道の駅「太良」。干潮まで、まだ1時間半もある頃だった。





それでも、これだけの干潟が出現していた。(本物の干潮のときに見たかった風景である) ムツゴロウが跳(は)ねているところを見ることはできなかった。





「祐徳稲荷神社」と昼食場所の「嬉野温泉」を見よ!

なお、鹿島市の海岸部では「ガタリンピック」が有名である。干満差6mもある有明海ならではの大会である。ただし、 2011年5月29日(日)開催予定だった第27回鹿島ガタリンピックは、非常に大型の台風2号のため、中止されたようである。





太良町から鹿島市へ移動して、「祐徳稲荷神社」までやってきた。

日本三大稲荷とは(各寺社が他の2つを何としているか)‥
「伏見」は稲荷神社の総本社なので、欠かせない。

 豊川‥伏見・祐徳
 祐徳‥伏見・最上
 笠間‥伏見・祐徳
 最上‥伏見・豊川





「祐徳稲荷神社」の舞台に上る。清水の舞台とどちらが高いのだろうか?





古くは軍港、現在は米海軍の基地であり、海上自衛隊と佐世保重工(SSK)のある町、「佐世保」へやってきた。 佐世保湾の西にある俵ケ浦半島へ回り込み、「展海峰」(展望台)までやってきた。 「佐世保」には、わたしの叔父と元同僚が住んでいるが、(こんな風に)旅行のときにしかやって来ないのが恐縮である。





残念ながら、薄い霧がかかっている。高いところから見ているので、「松島」(宮城県)よりも立体的に見えると思った。





右手奥、この半島の向こう側に見えるのが佐世保湾である。



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