橘湾に臨む「現在地」までやってきた。
元は千々石湾と言ったが、のちに橘湾と改称されたようだ。 日露戦争で、大隊長として遼陽城首山堡に出陣して壮烈な戦死を遂げ、後に軍神と讃えられた橘中佐の名からとったものである。 「よーよーとーと よはたけて〜」などというメロディをどこかで聞いたことがあるような? 調べてみたら 「遼陽城頭夜は闌けて 有明月の影すごく 霧立ちこむる高梁の 中なる塹壕声絶えて 目醒めがちなる敵兵の 肝驚かす秋の風」 などという軍歌 「軍神橘中佐の歌」だった。 長崎はもう少しだけ西に当たる。雲仙が長崎人の避暑地だったという言葉の感じが、地図からも窺われる。 このあたりは赤土が目立っており、じゃがいもの産地でもあるようだ。 |
千々石(ちぢわ)展望台。千々石というと「千々石ミケル」を思い起こしたのは、わたしだけだろうか?
四人の少年使節がローマまで派遣された有名な話なんだが、省略されたようである。
「原マルチノ」「中浦ジュリアン」もいたはずだが、もう一人の名が思い出せない‥。調べてみると正使の「伊東マンショ」だった。
彼らは活字印刷機械などヨーロッパの進んだ技術や知識を持ち帰り、日本文化に貢献した。
ただし、少年たちを待ち受けていたのは、キリシタンに対する迫害だけであった。
「天正遣欧少年使節」のその後(大村観光ナビによる) 正使 伊東マンショ 日向国(宮崎)都於郡(とのこおり)出身。 大友宗麟の遠戚にあたる。 四人の少年の中で最年長。 帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。 1601年マカオで神学を学び、1608年長崎で司祭となる。 布教活動の長旅で体を壊し、1612年、四十三才で長崎にて病死する。 正使 千々石ミゲル 有馬領千々石出身。 釜蓋(かまぶた)城主千々石直員(なおかず)の子。有馬晴信のいとこ、大村純忠の甥にあたる。 帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。 1601年頃、イエズス会を脱会。清左衛門と名乗り、大村喜前(よしあき)に仕える。 1633年死去。 副使 原マルチノ 大村領波佐見出身。 原中務(はらなかつかさ)大輔純一の子。 四人の少年の中で最年小。 帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。 1608年長崎で司祭となる。 布教活動を行うが、徳川幕府の禁教令によりマカオに脱出。 1629年マカオにて病死する。 副使 中浦ジュリアン 大村領中浦出身(現在の西海市)。 中浦領主中浦ジンクロウの子。 帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。 1601年マカオで神学を学び、1604年長崎に戻る。1608年、司祭となる。 徳川幕府の禁教令後も日本に残り、布教活動を続け、1633年、六十四才で長崎西坂にて殉教する。 |
千々石(ちぢわ)展望台から海岸(東部)を見下ろす。 |
バスに乗ってウトウトした後、目覚めたときに通っていたのは「諫早干拓地」の堤防の道だった。 ちなみに、3日目はバス後部(後ろから2番目)の席だった。 |
有明海西部にある道の駅「太良」。干潮まで、まだ1時間半もある頃だった。 |
それでも、これだけの干潟が出現していた。(本物の干潮のときに見たかった風景である) ムツゴロウが跳(は)ねているところを見ることはできなかった。 |
「祐徳稲荷神社」と昼食場所の「嬉野温泉」を見よ! なお、鹿島市の海岸部では「ガタリンピック」が有名である。干満差6mもある有明海ならではの大会である。ただし、 2011年5月29日(日)開催予定だった第27回鹿島ガタリンピックは、非常に大型の台風2号のため、中止されたようである。 |
太良町から鹿島市へ移動して、「祐徳稲荷神社」までやってきた。
日本三大稲荷とは(各寺社が他の2つを何としているか)‥ 「伏見」は稲荷神社の総本社なので、欠かせない。 豊川‥伏見・祐徳 祐徳‥伏見・最上 笠間‥伏見・祐徳 最上‥伏見・豊川 |
「祐徳稲荷神社」の舞台に上る。清水の舞台とどちらが高いのだろうか? |
古くは軍港、現在は米海軍の基地であり、海上自衛隊と佐世保重工(SSK)のある町、「佐世保」へやってきた。 佐世保湾の西にある俵ケ浦半島へ回り込み、「展海峰」(展望台)までやってきた。 「佐世保」には、わたしの叔父と元同僚が住んでいるが、(こんな風に)旅行のときにしかやって来ないのが恐縮である。 |
残念ながら、薄い霧がかかっている。高いところから見ているので、「松島」(宮城県)よりも立体的に見えると思った。 |
右手奥、この半島の向こう側に見えるのが佐世保湾である。 |