江戸時代の大坂は、南の木津川、北の安治川を湊として利用した。
北前船を中心とする諸国廻船は、木津川筋を往来する一方、菱垣廻船などは、安治川筋を利用した。(「大坂湊一覧」より)
三軒家の南に泉尾新田・今木新田・千島新田・平尾新田・恩加島新田などが誕生している様子がわかる。 木津川口の「千本松」は浪花百景に数えられている。 |
![]() 銅像ではなくて、優勝記念樹&顕彰碑だったところが、まことに謙虚だと思いました。 近頃、男子体操が復活の気配であることが嬉しいですね。 |
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![]() 第一次世界大戦後、日本は深刻な不況に陥りました。沖縄でも砂糖価格が暴落して大打撃を受け、毒を含むソテツの実や幹を食べて上をしのぐ有様でした。 生きる術を求めて多くのウチナンチュが阪神間の製紙・紡績などの工場労働者となり、生活を切り詰めて沖縄に送金を続けました。今でも 古老たちは昭和山のソテツを見ると、複雑な想いを抱くそうですが、それでも心が沖縄に帰っていくといいます。 説明しているのは、案内人の金城さん。 |
![]() 大阪市内には8か所の渡船場があり、そのうちの7か所が大正区にあります。渡し船は江戸時代から始まっていますが、いまも大切な役割を 果たしています。大正区の渡船場はその他に千歳・甚兵衛・船町・千本松・木津川とあります。 |
![]() 雨さえなければ西成区側に上陸して堤防沿いに歩き、 落合下渡船場に戻ってくるのですが、この日は中止になりました。短い川幅を往復しただけで終わってしまったのが、とても残念です。 ちなみに西成高校のあたりに大阪紡績の大きな工場があったようです。 大阪紡績の三軒家工場はのちに軍需工場となり、戦災で焼け落ちてしまったとのことです。 |
![]() 高潮対策として造られた巨大な水門ですが、「手前(下流側)はどうなるんだろう?」と案内人がぼやいていたような。。 結構高い堤防で守られているような気もしますが、実際に役に立つかどうかは信憑性に乏しいと思います。 3.11 東日本の津波被害を見る限り、大阪市の津波・高潮対策の見直しは当然必要でしょう。 |
![]() この場所で、三線を引きながら沖縄の歌を歌ってくれたのは若いお嬢さんでした。 ここのお店で「ピーナッツ黒糖」を購入し、傘を差したままの食べ歩きを楽しみました。(わたしだけです) |
![]() ただ残念なのは、シャッターが降りてしまったお店が目立つことでした。 |