東北支援生協ボランティアに参加して



近鉄バスに乗ったのは女性21人、男性9人、スタッフ3人の計33人だった。 夜行バスは大阪から川の駅「よこた」まで14時間30分の長旅だった。夜だから、寝て起きたら着いていたという感じである。




現地、陸前高田には小型バスに乗り換えた。元のバスとはさほど変わらないと思った。




2日目の朝食&3日目の夕食:助六寿司・お茶




2日目、3日目の昼食:おにぎり弁当・お茶

ちなみに

2日目の夕食は仕出し弁当(ごはん抜き)・お茶
3日目の朝食はのり弁当・お茶

さらに

おまけがあった↓




上長部での作業を早めに切り上げての交流会で食べたジンギスカン




交流会で食べた鮎の塩焼き




被災地視察:陸前高田市民体育館の正面玄関




被災地視察:陸前高田市民体育館裏側から見た内部…瓦礫の中には車も。約80人が亡くなった。奇跡的に助かったのは3人だけで、天井との隙間のはりに掴まったとのこと。




被災地視察:陸前高田市民体育館前には海底から引き上げられた車の残骸




被災地視察:陸前高田市民体育館横の地元スーパーでは店員・お客ともに、高台に逃げて、死者はいなかった。




被災地視察:陸前高田市役所。津波は3階まで達して、多くの方が犠牲になった。




被災地視察:陸前高田市役所玄関。亡くなった方々に合掌。




被災地視察:高台の縁に建てられた赤い木が津波が達したところ。向こうにあるのは海で、見渡す限り街と住宅地だったところである。今は、雑草と高く積み上げられた瓦礫の山と崩れずに残った鉄筋のビルしかない。左手前では、山の上の高田第一中学校の仮グラウンドを造成中である。本来のグラウンドには仮設住宅が建っている。




2日目の朝に「けせん朝市」を訪れた。買ったものは、だし昆布・するめ・りんご・ポン菓子とわたし用の「がんぱっぺしTAKATA」のバッジ。見たものは陸前高田の地図。これで、現在地と旅館と活動場所であった上長部の位置が分かった。




上長部の活動場所近くのガードレールは、津波のときに壊れたままである。(一部しか見えないが)右手の広い運動場は、地元とボランンティアの協力で造られた(長部小学校の)芝生の仮設運動場である。2日目(土)にはサッカーが行われ、3日目(日)には野球少年が集まっていた。




われわれの活動場所から1kmあまり歩いたところに仮設住宅が建っていた。




活動場所&休憩場所&交流会が行われた場所。緑のゼッケンをつけているのは皆われわれの仲間である。




丸太の皮むき




薪割り。冬に雪はさほど積もらないが、マイナス10℃まで下がるとのこと。大いに活用していただきたい。(と言えるほどの薪割りはできなかった…)




丸太を切る。薪割りの準備である。ずいぶんいい汗をかいたと思う。




作業の前に震災の犠牲者に黙祷。




このたび、縁あって、生協(パルコープ、よどかわ生協、奈良コープ)の東北支援ボランティア活動に参加させていただき、ありがとうございました。無理をせず、自分のできることをやればいいということを教えていただき、気持ちがずいぶん楽になりました。わたしのwebsite や mixiあたりで、感じたことを伝えてみようと思います。

丘の上から海方向を眺めたとき、海まで何もないところが実は街並みがあったところだと思うと無念でした。語り部の釘子さんが案内してくれた市民体育館に残された瓦礫も衝撃的でした。天井との間のわずかな隙間で生きるために踏ん張った3人の方々の奇跡的な生還もすごいことでしたが、その場所が元々の避難場所であったにもかかわらず、多くの尊い命を落とすことになったことこそ、学ぶべきことだと教えていただきました。あなたは自分の住んでいる地域の避難場所を知っていますか、それは本当に安全な場所ですか…宿題を持ち帰ることになりました。

陸前高田の南部の上長部では、大豆の種まきと薪割りを経験しました。こんなものでボランティアになるのかどうかが心配でしたが、地元の小森さんやボランティアの先輩たちの話を聞いて、1年半に及ぶ活動の一端を負っているんだと思うようになりました。瓦礫の処理や腐った魚の処理、溝掃除などのきつい仕事の積み重ねのあとで訪れたわけで、丸太との格闘で心地よい汗をかいたこと、地元の方々に温かく迎えていただいたことに感謝します。

私にとっては偶然、陸前高田を訪れたことになりますが、これからも陸前高田とつきあっていきたいと考えています。