大阪あそ歩「三軒家」  2018年5月13日


大雨の降る中、またも大正区に行って来ました。防水100%の靴とカッパ(ズボン)があれば、向かうところ敵なしのはずでしたが、自宅から最寄りの駅に向かうところで失敗してしまいました。そのときは、まだカッパ(ズボン)を身に付けていなかったのです。おかげで、ズボンも靴下もしっかり濡れてしまいました。靴の中まで水が染み込んでしまったのです。

タイトルは「近代紡績は三軒家から始まった!〜中村勘助の島から化粧地蔵、木津川水門まで〜」でした。6km(+3km)なり。

地名の「千島」は、新田を開いた東成郡千林村の岡島嘉平次さんの名前から付けられたそうです。 「千」と「島」をくっけています。 今もなお、芝川家が千島土地株式会社を経営していますが、

1878年(明治11)千歳新田50町歩(15万坪)購入
1879年(明治12)加賀屋新田68町歩(20万4000坪)購入
1886年(明治19)千島新田62町歩(18万6000坪)購入
1911年(明治44)西宮甲東園に芝川又右衛門邸完成(武田五一 設計)
1912年(明治45)千島土地株式会社設立(資本金15万円)
1927年(昭和2)芝川又四郎、芝川ビル竣工(渋谷五郎と本間乙彦 設計)
1974年(昭和49)北加賀屋千島ビル竣工

という沿革(歴史)があることが分かりました。




初めに造られた「大正橋」は、アーチ橋ということです。もちろん、大正4年に造られたので大正橋と名付けられたようです。区名の元にもなっています。雨がひどいので、「大地震両川口津浪記」の碑は省略しました。



上八坂神社にある「中村勘助之碑」です。もう一つの「中村勘助源義久彰徳碑」に詳しいことが書いてあります。

大正区の島を勘助島と呼んだのは、彼がその開拓にあたったからです。大飢饉のとき、お蔵破りを決行し、死罪が決まりましたが、庶民の助命嘆願が絶えず、勘助島に島流しになったとのことです。浪速のヒーローは、今もなお地域住民から尊敬されているようです。いずれ、大国町近くの木津(中村)勘助像にお目にかかりたいと思っています。



ここに日本を代表する「大阪紡績」の工場がありました。渋沢栄一や藤田伝三郎が出資して、イギリスで学んだ山辺丈夫が工務支配人(のち社長)となった近代工場です。三重紡績と合併して世界一の紡績会社(東洋紡)になりましたが、やがて軍需工場に転換させられ、1945年3月の大阪大空襲で焼失してしまいました。



下八阪神社にやって来ました。

ライオン




とぐろを巻いた蛇




八坂神社ではなく、八阪神社と書くわけで‥

上八阪神社よりも古い神社です。素戔嗚尊をこの地の守護神として、三軒家地域の開拓者らが建立したとのことです。




先日訪れたばかりの落合上渡船にやってきました。





しかも渡船に乗って、対岸に着いたあと(降りずにそのまま)引き返すということになりました。写真の真ん中が「三軒家水門」です。

この施設の扉に「この施設は高潮や津波から地域を守る働きをします。大切にしましょう。」という案内板がかかっていました。



化粧地蔵

このお地蔵さんのおかげで、この地域だけが奇跡的に戦災に遭わずに済んだということです。お礼に化粧しているそうです。 覗き込んでみたところ、あらまぁ‥ということです。(千島1丁目)