大阪あそ歩「豊里・江口」 5km   

2018年4月26日


正式なタイトルは「大隅島の醍醐味を味わう 〜乳牛牧から江口の君まで〜 」でした。

本日は、いろいろ足して10kmとなりました。

江口は淀川と神崎川が別れる場所に位置しており、交通の要衝だったようです。それ故、難波(なにわ)や西国に旅する人が立ち寄ったところで、遊女の里として栄えたようです。




地下鉄今里線「井高野」駅から、江口橋までやって来ました。遠い昔に来たことがあるような気がしますが、かなり駅から遠かったことを記憶しています。地下鉄がなければ、さぞかし不便なところだったのでしょうねぇ。




せっかく井高野まで来たのに、神崎川を渡ってしまいました。大隅島に渡ってきたわけです。




江口は淀川と神崎川が別れる場所に位置しており、交通の要衝だったようです。それ故、難波(なにわ)や西国に旅する人が立ち寄ったところで、遊女の里として栄えたようです。




江口の君堂(寂光寺)と呼ばれています。その昔、西行法師と江口の遊女、妙(たえ)が歌のやりとりをしました。

西行法師が江口の里で時雨に遭い、粗末な里家に雨宿りを請います。遊女、妙(たえ)はその申し出を断りました。

「世の中を厭ふまでこそ難(かた)からめ かりのやどりを惜しむ君かな」(*この世の執着を捨てることはあなたにとって難しいでしょうが、雨宿りもだめだとはあなたは意地悪な人だ)

「世を厭ふ人とし聞けばかりの宿に 心とむなと思ふばかりぞ」(*あなたはこの世の執着を捨て出家された方、一時的であれこんな粗末な家に心とどめるようなことをなさいませんようにと思ったのです )

*は、新之介(大阪高低差学会代表)さんの「十三のいま昔を歩こう : 西行と江口の君堂」から引用させて頂きました。どう考えても。妙さんの言い分の方が勝っているように思われます。




江口の君堂を出て、淀川右岸の堤防の道を歩くことになりました。いいですね。本来なら、淀川チャレンジウォークで歩きたいところです。




応神天皇が大隅島に大隅宮を置いたとか。このあたりの話は、にわかに信じられることではありません。

明治4年より、この神社は応神天皇を主祭神としています。




「ちちうしまき」が「ちゅうしまき」と変化したようです。村や小学校の名から「ちゅうしまき」が消えたのは残念です。




沢田家出身の僧、宗純(俗名沢田太郎左衛門)が開いた寺。

大坂夏の陣で徳川方に味方をして、その恩賞として淀川16か所の渡し(渡船)の権利を手に入れたとか、中島大水道の開削をしたとか、このあたりではかなり有名な一族のようです。




大宮(安閑天皇を主祭神とする神社)

淀川改修により、境内が河川敷となったために、大宮は現在地に引っ越したようです。また、氏地の大半が川底に沈んだために、氏子は新淀川の両岸に住むことになりました。豊里という地名が右岸、左岸の両方にあったそうです。どちらも東淀川区だったようです。現在は、左岸側は旭区となり、地名も太子橋と変更されました。




豊里大橋を渡ります。





橋の南詰に「平田渡しの跡」の説明あり。「平田の渡し」(「平太の渡しの跡」とも言う)の石碑は、両岸の河川敷に建っています。以前に見たことがあります。