古代から続く菅笠の里・深江

〜こころ深江の菅小笠 天の下にぞ名はみちにける〜

2013.5.5



新深江駅からスタートして東に向かい、やがて深江の歴史と伝統文化が残る町並みを散策することになる。地図で見ると大阪市と東大阪市の境界線あたりを歩いていることが分かる。





コクヨは「国の誉れ」から。国とは、この会社を創業した黒田善太郎の出身の富山のことであり、日本を指しているのではない。





暗越奈良街道は、古代より難波と奈良を最短距離で結ぶルートであり、奈良を越えると伊勢街道となり、伊勢参りに使われた道である。松尾芭蕉が大坂に向かうときに暗峠を越えたときに「菊の香に くらがり登る 節句かな」という句を詠んでいる。1694(元禄7)年9月9日重陽の節句のときであった。





ここは布施商店街。南に向かうと平野郷に至る「放出街道」であり、平野郷からは「中高野街道」と名が変わる。





この「放出街道」を北に進むと、旭区清水町と通って守口市高瀬町に入り、竜田通りで京街道に接する。





1318(文保2)年、融通大念仏宗の中興の祖と呼ばれる法明上人が開基した。平野郷の大念仏寺の第7世法燈となり、寺運を挽回したとある。





法明寺にある雁塚。「その昔、清原刑部丞正次という弓の名手が冬の日に狩りに出かけ、雁の先頭の一羽を撃ち落としますが、何故か雁には頭がありません。周辺を探したが見つからず、そのまま帰りました。次の冬に狩りに出て1羽の雌の雁を撃ち落とすと、羽の下から乾いた雄の雁頭が出てきた」とい伝承があって、この話を聞いた法明上人が、雁の夫婦愛に心打たれて、その冥福を祈るために四重の石塔を建立したと言われている。





「深江の段倉」かつては河内湖、笠縫村で、低湿地帯であったので少しでも雨が降ると洪水などが起こって水に浸かりやすいところだった。それで、石を高く積み上げた倉の中に大事なものを収めたようである。石を高く積み上げた倉が並んでいる様子を段倉と呼んだ。





深江稲荷神社。「深江菅笠ゆかりの地」「摂津笠縫邑跡」の石柱が並んで立っている。





人間国宝 角谷一圭記念 深江郷土資料館:





菅笠(大・中・小)と瓶敷





大菅笠:神宮式年遷宮御笠と同寸 約170cm





資料館前に「菅田」を復元した。深江菅細工保存会と深江菅田保存会及び町会が連携して小学生に菅の植え付け、刈り取りを実体験させると共に、 収穫した菅を使って菅細工の講習会を実施している。





「深江菅田の復元」について説明している。菅が水田で作られることを初めて知った次第である。約80平方メートル、とても小さいのが気になる。





人間国宝、角谷一圭氏の写真と年譜。鋳物師の父の仕事を手伝いして、鉄瓶、茶釜、伊勢神宮式年遷宮御神宝鏡などを製作してきた。1978年に人間国宝に認定された。





茶釜1(角谷一圭)





茶釜2(角谷一圭)





茶釜3(角谷一圭)