悪所くるいの身の果ては、南無網島の大長寺
〜「心中天の網島」の舞台を歩く〜

2013.4.9

ガイドさんが一生懸命解説してくれましたが、江戸時代の町人の心にならなければ、理解しがたいと思いました。 「義理」とか、「義理果たし」とかの気持ちが読みづらいです。




地下鉄「南森町」駅からJR「大阪天満宮」駅へ乗り換えです。「きたしんち」方面へは何度も乗っていますが、「おおさかじょうきたづめ」方面へ乗るのは初めてです。





藤田伝三郎の西邸跡です。「大阪市公館」は、大阪市の迎賓館ということです。以前に入ったことがあるような、ないような‥記憶が曖昧です。たまたまガイドさんの横にいたので、「入れるんですか?」と聞いてしまいましたが、その予定はないとのことでした。





元に戻って、藤田邸跡公園の入口にやってきました。 藤田伝三郎は元奇兵隊に属した長州人で、関西財界の重鎮。大阪商法会議所(商工会議所)の第2代会頭を務めたことでも知られています。





中央部に本邸が立っていたそうです。向こうに見える建物が多宝塔と蔵です。





蔵を横から見ると、とてもでかくて、しかも2つ並んでいました。





銀橋(桜宮橋)を過ぎたところに立っている石碑が「青湾」の碑です。かつて流れが渦巻く小湾「青湾」があり、そこの水は非常に美味しくて、秀吉が好んで茶の湯に用いたそうです。 また、水屋がこの地の水を水舟に積んで、飲料水として売り歩いたそうです。上町台地や天王寺界隈に名水なるものがありましたが、大阪のほとんどが(元々)海だったわけで、それだけ飲料水に向かなかったようです。

なお、新銀橋は安藤忠雄氏の設計で造られたことを教わりました。





ソメイヨシノは散ってしまい、八重桜の季節になっていました。バックに見えるタワーはOAPと思われます。





桜宮神社境内の八重桜です。ピンクがかった白が、私の好みです。





かつて藤田邸あたりを境内として栄えていた大長寺は、引越しして小さくなっていました。





「紙治・小春」比翼塚:寺とともに引越ししてきました。





「紙治・小春」比翼塚の案内:大長寺に参詣したあと、その境内で心中したことや「心中天網島」のことに触れています。





金子とともに、紙治・小春の書き置き2枚が見つかりました。「亡き後のことをお願いします」という趣旨のことが書かれています。