「一般社団法人大阪あそ歩委員会」代表理事の茶谷幸治さんが登場。お会いするのは初めてである。 事務局の陸奥さんの話は何度か聞いたことがあり、とても面白いのだが、今回は茶谷さんの班に加わることにした。梅田地下街からスタートする。 |
「露」と「天神社」が開けてあるのは、「露天」「神社」(露天神社、ろてんじんじゃ)と読まないように、という配慮である。 「つゆ の てんじんじゃ」と読むのが正解らしい。 |
「お初、徳兵衛 恋の手本となりにけり」 道ならぬ恋をして心中で終わるのが理想とはとても思えないのだが‥どうなんでしょ? |
国道1号線道路元標。昭和27年12月に設置された。それまではどこにあったか、という問いにわたしが答えました。高麗橋(東詰)にあります。 以前のイベントで説明してもらったものです。 |
いわゆる北新地の通りです。この道は川の土手だったところで、左の建物から南側に曽根崎川(通称、蜆川)があったということです。 |
「史跡 蜆川跡」の石柱が建物に組み込まれています。 |
「史跡 蜆川跡」の石柱の横面に「しじみばし」の文字が刻まれています。「珈琲の青山」の看板の方が目立っています。 |
土佐堀川沿いに「淀屋の碑」が建っています。淀屋橋を造っただけでなく、日本一の豪商ということでいかがでしょう。
天井にガラスをはめ込み、金魚を泳がせて楽しんだ、くらいのことは知っていますが、町人の分際であまりにも贅沢すぎるということで見せしめとして罰せられたようです。
その際に幕府に没収された資産が100兆円に上るということにびっくりするほどの豪商でした。このあと、大阪の商人は表向きは質素にしたようです。 ただ滅びるままに任せたのではなくて、財産没収の前に分家して、その後、大阪に復帰。 幕末には勤王の志士を支援して、全財産を朝廷に献上して見事に倒幕を果たしたということです。ざまあ見ろ、とところですね。 |
「淀屋の碑」の上部がゴチャゴチャしていると思っていたが、よく見ると貴重な絵が描かれていた。当時の米市場の様子が描かれているようで、まことに興味深い史料である。 |
大阪倶楽部の隣が「鶴屋八幡」のお店、しかも本店であるとは知らなかった。 |
伏見町3丁目から見た、御堂筋のイチョウ並木 |
御霊神社(ごりょうじんじゃ)に入る。 |
入口の南に「御霊文楽座」の石碑がある。 |
淀屋のような莫大な資産家が10人もいれば 溜まり溜まった国家の財政赤字(過去分)を 全額返すことができる (ちなみに、赤字の累計額はほぼ1、000兆円に上ろうとしている) (国民が1人あたり800万円の借金を抱えていることになる‥) などと考えてみた。 「町人の分限を超える贅沢」を理由にして幕府が淀屋の財産を没収したとき その金額は100兆円に上ったという。 そんな金持ちは今の日本にはいないだろうし そんな義侠心を持った資産家がいるはずもない というところが悲しい。 (資産家でない人間はそういうことを考える) |