「大手門」から中に入った広場を「大手枡形」という。振り返ると高麗門がある。 1628年に創建されたもので、国の重要文化財に指定されている。 |
高麗門の柱は継ぎ足されている。日本の建物でここにしかないとされる継ぎ方であり、 その謎を解くために毎日新聞が全国に呼びかけたとか。正解者はたった一人だったらしい。 |
「大手枡形」は敵が城内に入るのを防ぐために作った空間である。 正面の大門の上が渡櫓。右に折れ曲がるのが続櫓。まとめて多聞櫓という。 |
多聞櫓の門の真上(渡櫓)にやってきた。70畳敷きの大広間である。 続櫓にもたくさんの部屋があり、戦いの時には多くの兵が控えたはずである。 |
窓側の床にガラスがはめてあるが、「槍落とし」と呼ばれる。 進入してくる敵に、真上から槍や石などを浴びせるためのもの。 |
千貫櫓の西側の床には「石落とし」がある。 下を除くと石垣であり、ここをよじ登ってくる敵を防ぐためのもの。 |
千貫櫓の土台部分に「◎」の刻印がある。 加藤清正の息子、忠弘がこの一角を築いたので、加藤家の家紋である蛇の目紋が刻まれた。 |
天守閣の南西に金蔵がある。バックに建っているのが、元大阪市立博物館(旧陸軍第四師団司令部)である。
ちなみに、元禄16(1703)年には500〜800億円のお金があったようだ。1両、約24万円として計算されている。 余計な話だが、これだけのお金を狙って泥棒さんが入ったことがあるようで、うまく盗んだまではよかったが、 過度の散財が元でばれてしまったようである。戊辰戦争の際に榎本武揚が18万両を持ち出したが、やがて函館に運ぶ途中で船は沈没したらしい。謎である。 |