徳川家康、堺で死す!

2012年5月30日



地図は環濠で囲まれた堺の中心部(地図の上が南、南海本線堺駅の南を歩く)




千利休屋敷址




敷石を踏んで屋敷址に入る。




お茶を点てるに使われた井戸




チンチン電車の通る大通りに面して立っている「与謝野晶子生家の跡」




「生家跡」の説明。もとは和菓子のお店「駿河屋」だった。




「海恋し 潮の遠鳴り 数えつつ 少女(おとめ)となりし 父母(ちちはは)の家」の句碑




南宗寺は本来、三好家一門の菩提寺である。千家一門の墓や武野紹?の墓もあるが、なんと驚いたことに「徳川家康の墓」もある。 秀忠や家光も参ったことがあるという。

有吊なお話がある。大阪夏の陣のとき、真田信繁(幸村)の奮戦により恐慌状態に陥った家康は自害すると叫んで部下に誡められ、 駕籠に乗せられ逃亡中に後藤基次(又兵衛)が家康の駕籠を槍で突き刺し、重傷を負った家康は堺の寺に運ばれてそこで死亡したとするものである。 その後の家康は影武者という。1年後には亡くなっているから、たいして罪はないと思うが、歴史を書き替えなければならないとは思わない。





真新しい「徳川家康の墓」には、寄贈者のところに松下幸之助の名前も刻まれている。これは明治百年記念で建てられたものだから、そんなものでしょう。





真新しい「徳川家康の墓」全景