心斎橋ぶらぶらモダン散歩

2011年10月13日(木)

長堀川の北側が「船場」、南側が「島之内」でした。その長堀川に架かっていた橋が「心斎橋」です。 木橋、鉄橋、石橋と変わり、戦後に川は埋め立てられてしまいました。地下駐車場スペースを確保するためでした。 現在は「クリスタ長堀」と名乗る大地下街&地下駐車場になっています。(私事ですが)パン屋さんを探すのに苦労しました。

江戸時代、「日本の商の中心地・船場」から「天下一の花街・新町」「大芝居街・道頓堀」を繋ぐ道筋「橋筋」であったことから、 延宝4(1676)年、心斎橋の賑わいが始まりました。

明治33(1900)年「大大阪時代」には本屋20軒、舶来商15軒、時計商18軒、洋傘商11軒、洋丹・洋服商5軒が軒を連ね、 文明開化が浸透。「東の銀座、西の心斎橋」と並び称され、「心ブラ」が大流行します。今も大阪一のブランド力を誇る 心斎橋筋を「心ブラ」しているわけです。

なお、心斎橋の「心斎」は、この橋を架けた町人、岡田新三(心斎)から来ています。 八百八橋の大坂の町は、舟が行き来すると、杭は擦り減り細くなり腐る。すると橋は換え架えねばならない。 「杭により身上を潰す」そこから、「くいだおれ」の語源が生れたのです。

広辞苑では、「食べ物に贅沢して財産を失ってしまう」というような意味ですが、 大阪の「食い倒れ」といわれる所以は、「ほんまにおいしいもんを丁寧に食べつくす」という、 味覚と食へのこだわりが作る食文化にあるとのことです。



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「道頓堀」のシンボルでもある戎橋から眺めた道頓堀川です。 以前と比べるとかなり整備されたのですが、ここで水上バスに乗りたいとは思わないです。



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戎橋から見たご存知、有名な「グリコ」の看板です。 「一度食べて二度美味しい」グリコのキャラメルには、ずいぶんお世話になりました。



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三津寺は真言宗の寺です。天平16(744)年創建と伝わっています。中世には三津寺荘、後に三津寺村と称し、 元和年間(1615〜24)に大坂三郷の南組に編入されました。昭和20(1945)年の空襲でも奇跡的に焼け残りました。



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大阪を代表する老舗「大丸百貨店」本店です。元文元(1736)年に業祖・下村彦左衛門正啓が定めた事業の根本理念 「先義後利(義を先にして利を後にするものは栄える)」を代々継承しており、貧民に食料や衣服を分け与えるなど 慈善家としての評判も高く、大塩平八郎の乱(1837)では「大丸は義商なり、犯すなかれ」と、焼き討ちを免れています。



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高速道路の下に眠っている「しんまちばし」跡です。西横堀川に架かっていた橋です。 江戸時代には地図の上では大阪城が上になっていて、この川は(東横堀川と同様に)「横」に伸びていたわけです。 新町は大阪を代表する郭のある町でした。順慶町通りはここに向かっていました。



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「小倉屋」は昆布の老舗です。この店の前を通る東西の道がかつてのメインストリートで、順慶町通りといいます。 町の名前は「筒井順慶」から来ています。

すぐ傍の交差点に「井戸の辻」があり、明治24(1891)年に開業した寿司屋「すし常」がこの地にありました。 「バッテラ発祥の地」とのことです。 バッテラは元々コハダをネタにしていましたが、コハダが高くなり取れなくなったので、 鯖が代用されたことから始まりました。

ちなみにバッテラとはオランダ語でボートの意味です。 コノシロがピーンと尾を張ったところがボートに似ているところから命名されたそうです。



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御堂筋沿いにブランド物のお店が集中しています。そのなかで最も高価な商品を扱っているお店です。 あはは‥ダイヤモンドを扱っているので、当たり前だと思います。



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「しかんどう」跡です。 関西で初めての蘭学塾で、弟子に中天游がいて、その門下に緒方洪庵がいるとのことです。 大阪の「町人学者」の一例でしょう。




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きつねうどん発祥の地、松葉屋の隣にある「船場・虎屋」です。 アン・クロワッサンが名物のようです。(帰宅してから気がつきました‥) ちなみに、ここから先は旧北区に当たるという境界線に建っています。

きつねうどんも大阪の味の代表的なものですが、松葉屋の主人宇佐美要太郎が発明したのは明治26(1893)年のことですから、 案外新しいわけです。素うどんに稲荷寿司の揚げを添えて出していたところ、お客さんが揚げをうどんに入れるので、最初から 入れて出すようになったといいます。