ハイキング「大阪城 史跡めぐり」

2011年6月19日(日)

大阪城の史跡をめぐるハイキングイベント。予約不要で気軽に参加できます。 ボランティアガイドの方による名所の由来や歴史にまつわる逸話などを聴きながら、 約2時間かけて集合場所の大阪城公園駅改札前から天守閣までの約1,5kmを歩きます。 集合は10:30、参加無料。(JR西日本関連のイベントなり)

6月5日の部では約200名が参加したそうな。19日は小雨の中、それでも100名は超えていたように思う。 4班に分かれて、それぞれがまったくの別行動をとった。





青屋門から入る。昭和44(1969)年に大阪市が残材を用いて再建した。門の名は石山本願寺の寺内町であった青屋町に由来する。 外堀に架かる算盤橋で外部と繋がっていた。





石垣のこんなところに、人面石なるものがある。北東が鬼門であることと関係している。





長らく工事中だった極楽橋がようやく完成したようだ。ここから見る大阪城の眺めは、お気に入りである。 長さ、約54mの「54」という数字はあちこちで登場すると聴いた。





天主北側の一段低いところを山里丸(山里曲輪【くるわ】)と呼ぶ。 慶長20(1615)年の大阪夏の陣で、秀頼とその母淀君をはじめとする主従約30名がこの地で自害したと伝えられている。 ただし、その証拠はなく、謎のままである。このことが「プリンセス トヨトミ」に繋がっているようだ。





石垣の表面に残る傷は、第二次世界大戦末期の空襲による被害の痕跡で、機銃掃射によってついたものと推定される。 昭和20年3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度に及ぶ大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍事工場があった大阪城も標的となった。





隠し曲輪の石垣にある大洲藩の刻印石。なお、各藩の刻印石は「刻印石広場」に集められている。





隠し曲輪から見下ろす「二の丸庭園」。ここに家康が小天守を築いて、睨みを利かせたという。





大阪城天守閣では、「平成の大改修」を機に、ひとにやさしいまちづくりの一環としてエレベーターを新設した。(平成9年3月)

この城にふさわしい和風のエレベーターはなかったのか、とは参加者の声である。





元陸軍第四師団司令部は、戦後には、「大阪市立博物館」に衣替えした。 現在は、「大阪歴史博物館」の完成とともに閉鎖されている。このあたりに豊臣時代の天守閣があった。





天守閣前の広場の一角に日本庭園がある。かつて、ここに建っていた紀州御殿の庭園として整備されたものである。現在の天守閣復興の際に造られたものである。





「桜門」の一部分として、戦後築かれたものである。屋根瓦の「太閤桐」(五七の桐)に注目して欲しい。 大阪人は、(豊臣家の城を徹底的に破壊して造った)徳川家の大阪城に、豊臣家の家紋を復活させた。大阪人の心意気である。





2003年、大阪府警察本部棟の建て替えに伴う発掘調査で、豊臣時代の巨大な堀(幅約23m、深さ約6m)が見つかった。 大阪冬の陣のあと、堀の埋め戻し作業(突貫工事)が行われた場所であることがわかった。