ハイカラ神戸はここから始まった

〜南京町から龍馬が通った海軍操練所跡を歩く〜

2011年5月23日(月)



阪神「元町」駅を降りると、すぐに元町商店街に出る。西改札口から出たせいかと思う。 東側の外国人居留地の顧客のためにハイカラな商品が並んだとのことである。





南京町には一度訪れたことがあるのだが、記憶もいい加減になってきている。南京町がこんなに近いとは思わなかった。 中国獅子像があり、すぐに案内板が置いてある。わたしは、地図が大好きなので、すぐにパチリ!





南京町広場には13体の十二支像が並んでいる。亥はパンダとイノシシの2像がある。すべて中国に注文して、造られたものだ。 中国、韓国ともに十二支のラストは「イノシシ」ではなく、「ブタ」だから、難しい注文だったように思う。 「猪(イノシシ)」が上手く伝わらず、代わりにパンダを作ってもらったが、亥年生まれの人達から大クレーム。 もう一度説明し、なんとか「イノシシ(亥)」像が出来上がったとのことだ。

臥龍殿という立派な名のついたトイレはちらりと見ただけで通り過ぎた。 また、ガイドさんが教えてくれた言葉が「落地生根」。世界の華人(華僑)の生き方に関わる言葉である。 故郷を出た以上、その地に骨を埋めるということだ。「人間至るところ青山あり」の世界バージョンのようだ。

横浜中華街と比べると、神戸の南京町がはるかに小さいと思うが、それでも約100軒の店舗が集まっている。





元外国人居留地にやってきた。その西南部にアメリカ領事館の銘板がある。 神戸村の庄屋、生島四郎太夫の邸宅がそのまま利用されたようだ。





アメリカ領事館の前面の波止場を、そのままアメリカ領事館前波止場と呼んだという。 それがいつの間にか、メリケン波止場となった。 その後、正式には「萬国波止場」と命名されたようだが、いまでも通称で呼ばれるそうだ。





道標もそうなっている。





歩道橋も登ると海の近さがよくわかる。ここからは、神戸ポートタワーもよく見えた。 この下の広場には、兵庫県知事を勤めた陸奥宗光の石碑が建っているが、見学は省略された。





神戸郵船ビル(三菱の基礎を築いた日本郵船の旧神戸支店 曾禰・中条設計事務所 1918年)

竣工時にはこの上にドーム屋根があったが、戦災で失われてしまった。





NOF神戸海岸ビル(手前 旧三井物産神戸支店, 河合弘蔵の設計 1918年)

経済産業省より「近代化産業遺産」に指定されている。震災後、4階建てから15階建てに生まれ変わった。 ビルの上にビルが建っている。旧居留地の代表的建築物と近代オフィスビルが融合したものである。

商船三井ビルディング(中央 旧大阪商船神戸支店 渡辺節の設計 1922年)

旧居留地海岸通においても重厚さと美しさが際立ち、地域のランドマークとなっている。アメリカルネサンス様式のビルで、 東京の丸ビル(先代)亡き後、大阪市のダイビル(大阪ビルヂング)本館と並ぶ大正期の大規模オフィスビルである。。





神港ビルヂング(旧居留地8番館 川崎汽船本社ビル 木下益次郎設計 1939年)



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コロニア風のバルコニーが特徴の「15番館」は、震災後に再建されたものだ。

居留地時代(1868〜1899年)の建築物で、国の重要文化財にも指定されており、 当時の街区境界の煉瓦塀や石柱などとともに保存されている。重要文化財指定名称は「旧神戸居留地十五番館」。さらに、 館の東玄関脇の歩道には日本最古の近代下水道である「旧神戸居留地煉瓦造下水道」(工事期間1868 - 1872年)の遺構 (国の登録有形文化財)が展示されている。





神戸市立博物館では「古代ギリシャ展」を開催中。江戸時代初期のもので、教科書でよく見る「聖フランシスコ・ザヴィエル像」(重要文化財) はこの博物館所有の作品である。





1864年軍艦奉行・勝海舟によって開設された士官学校の地。坂本龍馬や陸奥宗光、伊東祐亮らが学んだ。





この東遊園地には、「神戸ルミナリエ」の際に来たことがある。中央に聳え立っているビルは市役所の建物である。 広場は意外と小さく感じるが、元はずっと大きな公園であったようだ。 明治8(1975)年に「内外国人公園」として始まったそうである。外国人から返還された後の1922年から東遊園地と呼ばれるようになった。 ラムネの大ヒットとか、ボーリング発祥の地であるとか、 居留地の外国人がスポーツやレクレーションを楽しむ場所であった。





W.J.モラエス(1854ー1929)翁像

「明治31年(1898)より6年間神戸に在住しポルトガル領事をつとめ日本をこよなく愛し多くの著作を出して日本を世界に紹介した」

Web「東遊園地と遊園地内のモニュメント(中央区)」中の「モラエスの解説文」によると

 ウェンセスラオ・デ・モラエス(1854〜1929)はポルトガルの元軍人、文豪である。 明治22年(1889)35歳のとき、私用で初めて神戸の地を踏んだ。 その後、二度日本を訪れ日本の美しさに心をひかれた。 海軍中佐になってから日本移住を決心し、本国からの帰国命令に反して、明治31年から神戸に住むようになった。

 同年11月、友人のすすめで大阪、神戸のポルトガル領事館につとめ、のちに副領事となる。 明治33年(1900)11月、福本ヨネと結婚し、山本通2丁目、加納町2丁目などに住んで、日本風の生活を身につけた。

 大正元年(1912)8月ヨネが死に、彼女のことを忘れ得ず、公職(神戸総領事兼イタリア領事)を退いて大正2年、 ヨネのふるさと徳島に移り住んだ。その後、ヨネの姪コハルと結婚したが、コハルにも先立たれ、徳島市伊賀町で、独居生活をつづける。 75才のとき土間から落ちて重傷を負い逝去した。

 著書には「極東遊記」「日本夜話」「日本支那風物誌」「日本精神」「おヨネとコハル」など二十数編がある。





「1,17希望の灯り」に合掌





日本語の説明版





英語もある。





スーツの紙型をモチーフにしたモニュメント。開国の翌年、イギリス人カベルが居留地で日本最初の洋服店を開業した。





阪神大震災の記憶。震災のため、このマリーナ像は倒れ、そのとき時計は壊れた。 震災の記憶を永遠にとどめるため、この時計はその時を示している。(平成7年1月17日)午前5時46分のことである。





宮城道雄生誕地の碑。8歳で失明し、筝曲の道へ進んだ。碑では、10分ごとに「春の海」が演奏されている。





三宮神社。「史蹟 神戸事件発生の地」である。1868年に備前藩士の隊列を横切ろうとした米英仏兵との諍いから 大掛かりな交戦状態となった。最後には、第3砲兵隊長の切腹で責任をとらされることになった。





神戸元町でのイベントが終わり、JR「新長田」駅に移動した。 何かの機会でなければ、長田を訪れることはなかなか難しいと思っていた。





目指すは若松公園である。





われらがヒーロー、鉄人28号の勇姿である。高さ18メートルに及ぶモニュメント。 阪神大震災後の復興・商店街活性化のシンボルとして製作された。 「鉄人28号」の原作者である故・横山光輝氏は神戸市須磨区出身であり、長田も青春時代を送った場所として紹介されている。 同時に、三国志のモニュメントも多い町のようだ。

考えてみると、わが家の慣れ親しんだ「三国志」も故・横山光輝氏の作品である。 長田の商店街を散策することなく帰阪したことが惜しまれる。 すべては、雨と靴のせいだったということにしておこう。
雨用の運動靴、あるいはウォーキングシューズを持っていなかったので、娘の靴を借りた。 (そもそも、これがいけなかった。雨用でなければ、4足も持っているのに‥) あまりにも窮屈な靴に無理やり足をねじ込んだような次第だったので、もはや限界だった。