河内湖を臨んだ生野の古代豪族たち

2011年5月13日(金)

001

近頃、JR桃谷駅を訪れる機会が増えました。駅構内の地図は相変わらず、上が南です。 今回は、左(東)に向かったあと、上(南)方面に向かいます。



002

この前には見逃してしまった猫間川筋です。遠くに此花学園が見えます。何度も通った道です。 猫間川は大阪城の外堀にも当たる川で、その水源は桃ヶ池・長池とのことです。 上町台地に降った雨を集めた川でもあるようです。 こまがわ(駒川)はすぐ近くにも流れていて、それと区別するために「ね こまがわ」となったとのこと。 それが猫間川になったようです。現在は暗渠と化して、地下を流れています。



003

日本最古の橋である「つるのはし」跡を過ぎたところに「平野街道道標」が立っています。「右 八尾久宝寺、信貴山」と書いてあります。 もちろん、「平野」を通過して、さらに進んだところにある地名です。 平野街道は旧平野川の土手道だったようです。ぐぐっと弧を描いている土手道に沿って歩くと、そこが両サイドよりも高くなっていることがわかります。 その道は、鶴橋中学校のすぐ隣の道でした。



004

俊徳街道に臨む「西俊徳地蔵堂」です。東西の道路が俊徳街道で、天王寺(四天王寺)〜河内〜大和を結ぶ重要な街道だったようです。 なお、この地蔵堂前の旧平野川に架けられていたのが「百済橋」だったようです。川は埋め立てられ、橋も姿を消しています。



005

「西俊徳地蔵堂」横にある道標です。「右 平野‥」ですね。



006

ここは御勝山古墳の墳丘の上です。こんなイベントのときですから、中に入ることができたようです。 以前はここに大阪府立農学校がありました。

「現勝山北三丁目のほぼ全域と、同南三丁目の北半分を占める約55haに及ぶ校地をもち、そこに実験農場がひろがり畜産の実習にも励んだ。」 (大阪市Web)

この碑が建てられたのが大正15年です(大正14年3月に堺に移転した)から、そう古いことではありません。 やがて、大阪府立大学農学部となったようです。 勝山通沿いの広い敷地跡に、生野区役所、生野警察署、生野区民センターなどが集中的に建てられたようです。



007

このあたりが円墳の頂上付近です。もとは岡山と呼ばれていましたが、大阪の陣の際に徳川秀忠が陣を置いて戦勝したことから 「御勝山」と呼ばれるようになったようです。 ちなみに、本来は南北約112m、東西約55m、高さ約8mの前方後円墳で、5世紀頃に造られました。 円墳と方墳の間を勝山通がまたいでいます。南側の方墳跡は公園となっています。

平成2(1990)年に御勝山古墳付近を調査した際に、縄文時代前期(紀元前5000年ごろ)の土器片が発見されました。それまでは、 森ノ宮遺跡が大阪市内最古の縄文遺跡がだったので、画期的な発見だったようです。(当時は河内湖に面していました)



008

公園の片隅にある「折口信夫の文学碑」です。旧制天王寺中学(天王寺高校)の学生であった彼は、 この百済野くんだりまで遊びに来ていたらしいです。のちにやってきた彼が見間違うくらいに、風景が変わっていたことを詠んだようです。 われわれも「鶴橋」を過ぎて、「生野」に入ったようです。



009

舎利尊勝時の門です。古代、生野長者がいて、その子どもが3つの仏舎利を口から吐き出し、 聖徳太子がそれを舎利尊勝時、四天王寺、法隆寺に祀ったといいます。 かなり、立派な寺だったようですが、現在は黄檗宗の寺となっています。



010

舎利尊勝寺から西に向かい、JR環状線も過ぎて、天王寺区に入りました。 小さな公園に「摂津国分寺跡」の石柱が立っています。



011

北区長柄と中央区森ノ宮中央あたりも「摂津国分寺跡」という説があるとのことです。



012

珍しく「国分寺」なる寺があります。周りはすべて駐車場と化しています。どうやら、人を寄せ付けない寺のようです。