待ち合わせ場所となったのは杭全交差点(五差路)の直ぐ北にあるJR大和路線「東部市場前」駅である。
1989(平成元)年にできた、大和路線で最も新しい駅で、写真中の「貨物百済」駅は現在、改修工事中とのことである。
このあたりは東住吉区の杭全町で、平安時代のころは杭全庄と呼ばれていた。平野にはだんじり祭りで有名な杭全神社がある。 杭全庄を治めたのが坂上広野麻呂で、その名前から「平野」という地名が生まれたというのが定説となっている。 明治30年の地図を見ると、このあたりは北百済村である。南百済村(湯里)に南百済小学校がつくられたのも当たり前のようである。 |
国道25号線(奈良街道)の地下を通り抜けたばかりの今川の流れである。 まもなく、駒川と繋がり、やがて新平野川に合流する。 |
今川に架かる五輪橋を渡ったところ(右岸沿い)にある五輪塚である。大阪夏の陣で桑津は激しい戦場となり、この地で
豊臣方の侍大将・柴田権十郎正俊と徳川方の蜂須賀九郎衛門が死闘を繰り広げた。権十郎が九郎衛門の首を討ち取ったが、
自らも重傷を負い、自刃した。住民が2人を供養し、2つの五輪の塔を建立したが、1基(九郎衛門墓)は行方不明をな
ったとのことである。
ちなみに、権十郎は福島正則の家来であり、主の福島正則は複雑な立場であったようだ。関が原の戦いでは徳川方に味方したが、 豊臣秀頼に対する忠誠心が厚く、後に2代将軍秀忠により、些細なことを口実にして、息子・正利は3千石の旗本に移された。 大坂夏の陣では、家康が正則の大坂方への寝返りを警戒し、江戸城留守居役として、正則の行動を封じ込めたので、 柴田権十郎が身代わりとなって、秀頼に味方したと言われている。 |
桑津の環濠集落にやってきた。微妙に曲がる道は、環濠の跡である。 |
この石垣の下部は、環濠がらみのものだそうだ。 |
史蹟「金蓮寺・八幡宮」旧隠。「日本書紀」によると、日向の国から招いた美女の誉れ高い髪長姫は応神天皇が桑津に住まわせたとある。
のちに仁徳天皇の妃となったという。その後、髪長姫の宮跡に金蓮寺が建てられ、応神天皇とともに八幡宮にまつられていた。
明治の神仏分離のために、桑津天神社に遷されたとのことである。主神は医薬の祖神・少彦名命で、髪長姫が病にかかったときに
少彦名命に祈願して全快した縁故でまつられたと伝えられている。
髪長姫は機織りの名手で、背丈以上の黒髪であったので、こう呼ばれたといわれている。 桑津の地名は古代、桑の木が多い津に由来するが、今も名残の桑の木があるとのこと。 |
下の格子は新しいが、2階部分の土蔵っぽいところなどは古さを感じる。 |
北口地蔵。環濠集落の入り口のひとつである。 |
大阪陣戦没将士慰霊碑 |
桑津天神社入口 |
桑津天神社拝殿。その隣では、だんじり囃子の練習が行われていた。 |
桑津天神社鳥居。現在、参道は公園の一部になっている。 |
桑津小学校正門横に桑津遺跡の標識が立っている。
弥生時代の遺跡で、周辺地域では縄文時代の石ぞくも見つかっており
桑津地域に人が住み始めたのは約1万年前にさかのぼることが判明した。
「6〜7世紀頃の摂津・河内・泉の景観」(地図)によれば、 桑津は上町台地の東側にあり、草香江(河内湖)に開かれた港であった。 |
桑津小学校の樹齢100年に達する桑の木。 この小学校では、今でも蚕を育て、その繭から糸を紡ぐ体験的な学習が行われているとのことである。 地元の参加者が語ったことだから間違いあるまい。 |
駒川に架かる「くわのみばし」 |
「くわのみばし」から見た駒川の流れ。 現在の水源から阪神高速道路あたりまでは何度も歩いたし、 今回の「大阪あそ歩」で阪神高速道路以北を補ったので、駒川の見納めをしてもいいと思った。 なお、元の水源は依羅池と聞いたので、疑問のひとつが解明した。 |
開高健の旧居は昨年まであったらしいが、現在は建物は取り壊されて跡形もない。基礎の工事中であった。 |
近鉄南大阪線「北田辺」駅構内につくられた開高健の文学碑。大阪市大法学部を卒業して
壽屋(現サントリー)に入社するが、27歳のときに「パニック」を発表して作家として注目され、翌年「裸の王様」で芥川賞を受賞する。
やがて作家活動に入り、東京に転居した。
旧制天王寺中学(現天王寺高校)の卒業生ということは知っていたが、作家としてよりも、釣り人としての方が馴染みがある。 |