淀川の風に吹かれて

〜淀川の渡し跡からワンドへ、鉄橋へ〜

(大阪あそ歩) 2010年6月6日



橋寺廃寺

「 昭和34年に菫中学校の郷土クラブの生徒たちが河川敷で室町時代の布目のある軒平瓦を発見しました。 奈良時代には、島下郡高瀬里に高瀬大橋が架かっており、僧行基が建立した橋本寺(高瀬橋寺)があったといいますが、 その寺と橋寺が同一のものかどうかは不明です。」(淀川の風に吹かれて 2010.6.6 大森メモ)





千人塚

「 昭和20年6月7日の大空襲により数万人の死者がでました。 身元不明の遺体千数百体を市民奉仕で城北公園裏の堤防に集められ荼毘に付されましたが、 そのときの黒煙は「天に柱し、三日三晩に及ぶ」と言われました。」(大森メモ)





赤川廃寺

「室町時代の大洪水で消滅したとか、大阪夏の陣で焼失したとも言われていますが、確かなことは分かっていません。 昭和34年に菫中学校の郷土クラブの生徒たちが、周辺に燈明皿などが重なっているのを発見し、当時の新聞にも載りました。」(大森メモ)





豊里大橋

もとは、ここに「平太(平田)の渡し」がありましたが、豊里大橋の開通により廃止されました。 昭和45年3月3日に最後の営業を行い、最終日には「おなごり乗船券」が発売されました。 堤防の上に「平太の渡し跡」碑が建っています。

「万国博覧会の関連事業で完成しました。水面から45mの高さに全長928m、幅18mのやじろべえ型の橋梁です。」(大森メモ)





菅原城北大橋とワンド

「 ワンド(または、湾処)は、川の本流と繋がっているが、河川構造物などに囲まれて池のようになっている地形のことである。 魚類などの水生生物に安定した棲み処を与えるとともに、様々な植生が繁殖する場ともなっている。」(Wikipedia)

「 ワンドは、淀川の改修工事によって生まれたものであり、もともと局地的な用語であった。 明治期に行われた淀川の改修工事では、蒸気船が遡行しやすいように、あえて水路を曲折させて流れを緩める工事が行なわれた。 水路が曲がった部分は水圧の影響を受けやすいので、岸から川に向かって垂直に水制とよばれる河川構造物を設置した。 やがてこの水制に囲まれたところに土砂がたまり、その上に水際を好む植生が繁茂し、現在のワンドの元の形が作られた。」(Wikipedia)





赤川鉄橋(仮橋)

「 城東貨物線(吹田−百済)の淀川橋梁。 旅客車が走るようになれば仮設橋が無くなるというので、貨物車の通過をカメラに収めようとする人も多いようです。」(大森メモ)

われわれがこの橋にやってきたときにはすでに通過してしまったようで、とても残念です。





城北菖蒲園 (1964年開園)

@アヤメ(菖蒲)は、5月上〜中旬に、乾燥地に咲く。花径は8cm 内外と小さい。
Aカキツバタ(杜若)は、5月中〜下旬に、湿地又は浅水地に咲く。花径は12cm 内外と中位である。
Bハナショウブ(花菖蒲)は、5月下旬〜6月に、湿地又は乾地に咲く。花径は15cm 内外と大きい。

ハナショウブには‥

A,江戸系(群生美を楽しむために改良されたもので、他の系統に比べて性質も強く、一般に高性である)
B,肥後系(雄大で六英咲きが主であり、群生美よりは個々の草姿、花容が重視され、その優劣を競った)
C,伊勢系(三英咲きが主で、あまり大輪ではないが、花弁が薄く、柔らかく垂れ、優雅で清楚な趣がある)の3つがある。 (城北菖蒲園パンフより)





江戸系・舟遊

まともに撮れていたのは、この写真だけです。自宅からは遠すぎるので、リベンジは無理です。





赤川鉄橋(仮橋)から上流を眺める

淀川は(大和川と比べるまでもなく)水量が多く、ゆったりとした流れがとても羨ましいです。 上流に「菅原城北大橋」が見えます。通行料は、車のみ100円だそうです。





ゴール・東淡路1丁目

赤川鉄橋(仮橋)を渡り、対岸の東淀川区東淡路1丁目に辿り着きました。 約6km、3時間のコースでしたが、途中で座るところがなく、カンカン照りだったこともあって、とても疲れました。 ここからさらに阪急「淡路」駅まで歩きましたから、約7kmということにしておきます。