Welcoming ウォーキング in アベノ

〜スタート地点「あべのルシアス」〜

2010年 6月 5日



海照山正圓寺

「西方に海を望見できることから「海照山正圓寺」と命名、“天下茶屋の聖天さん”としたしまれています。 ご本尊は商売の仏さま・大聖歓喜天で、日本最大の木彫りの聖天さんとして知られています。」(Welcoming アベノ・天王寺)

古義真言宗京都東寺の末院で天慶2年(939年)光道和尚が、現在地の東方500メートルの地に開基し、 「般若山阿部寺」と呼んだのが、この寺の縁起です。(阿倍野区 名所旧跡)





聖天山山頂

聖天山は標高14mの低山で、正圓寺境内に山頂があります。大阪5低山の1つにリストされています。





聖天山古墳

海照山正圓寺の北側、聖天山公園に円墳があります。 直径10数メートル、高さ約3メートルの6世紀築造の古墳で、昭和26年には石室と埴輪・土器・馬具などの副葬品が出土しています。 誰のものかはわかっていないそうです。





兼好法師の藁打ち石

吉田兼好は、和歌をよくして後宇多天皇に仕えたが天皇の死後出家し、南北朝の戦乱をさけて京都吉田山に隠れ住み、兼好法師とよばれた。

その後、兼好の家僕・命婦丸の郷里である当地の丸山に移り、藁を縄につくろい、筵(むしろ)を織って糧にするという清貧自適の生活を 送った。松虫通3丁目の海照山正圓寺の表参道横にある大聖歓喜天と彫られた石標の磯石は、兼好法師の「藁打ち石」と伝えられている。 また「吉田兼好法師隠棲庵址」の石碑も境内にあるが、これは丸山の地から移されたもの。(阿倍野区伝説・人物)





伊東静雄文学碑

昭和4年、京都大学を卒業した伊東静雄は府立住吉中学に赴任し、北田辺や阪南町に住んだ。 昭和7年に結婚し、阪南町中3丁目20番地、旧大阪高等学校(現阪南団地)近くに新居をおいた。 「文明湯」という、新興住宅地にふさわしいハイカラな名の風呂屋も近くにある棟割り2階建の長屋だった。  この阪南町時代に、伊東静雄は、萩原朔太郎に激賞された第1詩集「わがひとに与ふる哀歌」の優れた作品を書く。 松虫通に文学碑が建立されている。(松虫通2丁目)(阿倍野区伝説・人物)





松虫塚

古書「芦分船」によると、後鳥羽上皇(1183-1198年)に仕えた松虫、鈴虫の二人の官女が法然の念仏に発心し、 承元元年(1207年)法然が土佐に流されたのちに、松虫がこの地に庵を結び隠棲した所であると伝えられている。  また、「摂陽群談」と謡曲「松虫」には、「昔、ある人が親友と二人で阿倍野の松原を通ったが、 その一人が節おもしろく鳴く松虫の音を慕って行ったまま帰らないので、捜しに行くと友は草むらで死んでいた」 これを葬ったのが松虫塚であるとする説や、ほかにいくつかの伝説が残っている。(阿倍野区 名所旧跡)





熊野街道

熊野街道沿いの各地に、この案内が見られます。





安倍清明神社

祭神は、「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉」の古歌で有名な、葛の葉伝説にもでてくる天文博士安倍晴明です。 境域は余り広くはないが、当神社は、「晴明宮御社伝書」によれば平安朝時代の寛弘4年(1007年)、第66代一条天皇の創建とされています。 大正14年に現在の社殿を造営復興されました。学術、技芸の神、火難、病難災除の神、また安産の神として信仰されています。 (阿倍野区 名所旧跡)





安倍晴明公

安倍晴明公は、現神社の土地で誕生したと伝えられている。  少年時代に京に上り、天文・陰陽道・推算術を修め、天文司廊大博士、大膳大夫、播磨守等を歴任した。 著書に「金烏玉兎集」「占事略決」などがある。寛弘2年(1005年)9月に死去。(阿倍野区伝説・人物)





安倍王子神社

「“アベノ”の地名の由来となった安倍一族の氏神社で、一説には仁徳天皇のご創建とも。 紀州熊野大社の末社、熊野九十九王子の第二王子社となり、現在では大阪府下唯一の旧地現存王子社です。」(Welcoming アベノ・天王寺)





安倍王子神社

厄除開運、病気平癒等に霊験があるといわれています。(阿倍野区 名所旧跡)