日本一の海運王へ‥岩崎弥太郎、起つ

〜三菱発祥の地をたずねて〜

2010. 4. 19

001


木村兼葭堂(きむら けんかどう)屋敷跡碑

大阪市立中央図書館のすぐ南に、この碑が建っています。 木村兼葭堂(1736〜1802)は文人、画家、本草学者、蔵書家、コレクターであり、蘭学者番付にも名が載るほどでした。 商家の長子で、体が弱かったために親から学問をすることを許されたところ、才能が発揮されたようです。

交友が広く、彼を訪ねた人の名をすべて「兼葭堂日記」に書いて残しているわけで、のべ9万人にのぼるところが凄いです。 余りの隆盛に妬みがあったのかどうか、寛政の改革のときに酒造統制違反で町年寄を罷免され、一時伊勢に転居したそうです。 2年後に帰阪して、以前も増して栄えたとのことです。町人学者って、大阪には多いですね。



002


土佐稲荷神社

大阪市立中央図書館のすぐ裏手(西)に、大阪市立西高校があります。土地が狭いので、校舎がビルのようになっています。 その隣にある土佐公園のさらに隣が、土佐稲荷神社の入口です。

江戸時代はちょうど長堀川沿いで、土佐藩蔵屋敷があり、屋敷内に稲荷社がありました。周り一帯が土佐藩に関連するところでした。 明治6(1873)年に、新政府高官になっていた後藤象二郎の斡旋で、岩崎弥太郎が「三菱商会」を設立しました。土佐藩の負債を肩代わり する条件で船3隻を入手して海運業を始めました。このとき、弥太郎は、土佐藩主・山内家の三つ柏紋と岩崎家の三階菱紋を合わせて 社章(スリーダイヤ)を作ったとのことです。



003


社殿

立派な社殿が建っています。 第二次世界大戦の大阪大空襲でほぼ全焼したので、これは戦後の再建によるものです。



004


社殿

三菱創業の地ですから、神社の神紋の中にもスリーダイヤ(社章)が入っています。



005


宝井其角の句碑

このあたりは江戸時代より桜の名所として有名だったようで、 元々別のところにあった宝井其角の句碑「明星や 桜定めぬ 山かつら」を運んできたようです。



006


岩崎家旧邸跡

神社東側に、この碑があります。元々土佐藩邸があったところを岩崎弥太郎が引き継ぎ、後にその一部が大阪市に譲渡されました。 昭和12年に大阪市立高等西華女学校(市大家政学部の元)が建てられ、同校保護者がこの碑を敷地内に建てました。 やがて校舎跡地には集合住宅が建てられ、平成20年には再開発がスタートしたため、この碑が神社内に移転しました。



007


西長堀アパート(団地)

昭和32(1957)年に日本住宅公団が誕生し、 その建設第一号で、11階建ての公団高層住宅の先駆けとなりました。このアパートに住んだ司馬遼太郎が「龍馬が行く」を ここで執筆しました。



008


説明は要りませんね。




009


細野ビルヂング

初めは、三階建ての何の変哲もないビルだと思いました。昭和11(1936)年に細野組の営業部の建物として建てられました。 戦争で西区のまちが焼け野原になってしまったとき、頑丈な造りのおかげで、そのままの形で残っていたそうです。 現在のビル・オーナーは細野房雄氏で、ビルを壊して新しいビルを建てようと考えたことがあったそうですが、自力で修復に努め、 今では芸術・文化の発信地となっています。若いアーチストが集まり、雑誌などにも掲載され、連日ファッションショーやコンサート が開かれています。

2003年6月6日午後6時6分6秒に第1回の「66(ろくろく)展」がスタートしました。こういう語呂合わせはわたしも大好きです。 一風変わったこのネーミングですが、芦屋の高級住宅地として知られる「六麓荘」に由来します。 細野ビルヂングを建てたのは、細野房雄氏の祖父にあたる細野濱吉氏ですが、「六麓荘」の宅地造成を行って開発した人物です。



010


細野ビルヂング1階

ファッション雑誌などの撮影に使われている場所です。 古い家具などがそのまま、背景として使われています。



011


細野ビルヂング屋上からの眺望

鰹座橋交差点です。地下鉄鶴見緑地線 「西長堀」駅があるところです。江戸時代には、東西に長堀川が流れ、土佐藩の蔵屋敷が建っていたあたりです。 長堀通りの中央が緑地帯になっているのが目に優しく、とても嬉しいですね。



012


和光寺あみだ池

長野県の善光寺に行くたびに聞かされる話の元になっている 場所です。その昔、廃物派の物部氏によって池に投げ捨てられた阿弥陀如来が、推古天皇6(600)年に信濃の住人・本田善光によって 拾われて長野まで運ばれ、善光寺ができたという話です。ガイドさんは、別のところにもあみだ池があったというようなことを おっしゃられましたが、どうなんでしょう? 確証のある、なしがとても問題だと思います。

元禄11(1698)年、堀江川が開削され、堀江新地の区画整理が始まると、長野・善光寺から智善上人を迎えて、あみだ池のほとりに 和光寺を建てたとのことです。あみだ池の存在を決定づけるような、凄い話だと思います。

このあみだ池の水源について、参加者から質問がありましたが、霊水が「湧く」ということで、決着しました。



013


伏屋素狄(ふくや そてき)顕彰碑

和光寺のお墓にこの顕彰碑が建っています。 ガイドさんが説明を忘れていたので触れることもないのですが、少しだけまとめておきます。 彼(1747〜1811)もまた、町人学者の一人です。和泉の国の居酒屋の養子となり、やがて漢方医学を学び、大坂で開業しました。 西洋医学も学んだようで、腎臓に墨汁を注入した実験(動物実験)で「腎臓は小便濾(こ)し役」であることを 発表しましたが、これが当時の西洋医学界にかなり先んじていたということが最も強調したいところです。



014


あみだ池大黒(粟おこしの老舗)

創業、文化2(1805)年。「あみだ池大黒」の初代小林林之介氏は、年貢米を積んだ千石船の船底に溜まる余剰米に目をつけて、 おこしの原料にすることを思いついたそうです。日露戦争の時に明治天皇の恩寵の菓子として選ばれたそうで、兵隊たちの人気も高く、 やがて宮内庁御用達となりました。こんなところからも、大阪名物・粟おこしは、全国的なものになったのですね。



015


大黒様オンパレード

全国各地から集められた約3500体の大黒様を集めた蔵は、第二次大戦でも焼け残りました。蔵を開いて、見せていただきました。