「こちらに丁子屋のお勝どのが待っておられると聞いて参った。それがし、坂崎 磐音と申す」 番頭に言いかけると 「坂崎様、お聞きしております」 と早速二階座敷に案内された。 通りに面した座敷で、仲之町がちらりと見えた。 「しばらくお待ちくださいませ」 番頭が姿を消してしばらくすると、酒、お膳、煙草盆などが運ばれてきた。 「ごゆっくり」 磐音はお勝の来るのを待った。 色里吉原に流れる時がゆるゆると移ろっていく。 隣座敷に人の気配がした。 磐音は姿勢を正した。だが、仕切りの襖は開かれなかった。 「お勝どのにございますか」 しばしの沈黙の後、 「お懐かしゅうございます」 という声が襖を隔てて聞こえてきた。 「奈緒」 磐音は思わず襖ににじり寄ろうとした。 「そのままにお聞きくださりませ、磐音様」 「承知した」 「奈緒が豊後関前城下を出て以来、磐音様は陰から奈緒の身を案じてきてくださ いました。どれほどか勇気付けられたことにございましょう。二年半前、奈緒が 吉原に乗り込んだ折りも、磐音様は私の身を案じて密かに従ってくださいました。 また、十八大通の金翠意休様が無体を仕掛けられた鐘ヶ淵の紅葉狩りでも、磐音 様に助けられました」 「承知であったか」 「最初から分かっていたわけではございませぬ。困ったときに密かに動いてくれ るお方があると莫として思い至ったのは、長崎から小倉に売られていく道中でご ざいました」 「長崎の望海楼の床の間にそなたの白扇が飾られてあった。『鴛鴦や 過ぎ去り し日に なに想ふ』という句がそなたの字で書かれてあった」 「ご覧になったのですね」 「あの白扇、今でもそれがしの手元にある」 「なんと」 「長門の赤間関では、薄墨太夫から今一本の扇子を頂戴した。『夏雲に 問うや 男子の 面影を』という句がそなたの字で書かれてあった」 襖の向こうで奈緒が息を?む音がした。 「幼き頃、坂崎家の泉水のそばで鴛鴦の番を見ながらなした約定は叶いませんで した」 「あの頃、そなたの兄の禁平も、姉の舞どのもおられた。無心に願えば望みは叶 うと信じていた」 舞は夫の河出慎之輔の手に掛かって非業の最期を遂げ、その仕打ちに激怒した 琴平が慎之輔を殺し、藩役人までを手にかけた。 錯乱した琴平を始末するために上位討ちの役を磐音が負わされた。幼馴染みの 磐音は関前藩城下の辻で壮絶な死闘の末に琴平を斃した。 「すべては藩の腐敗を招いたご家老宍戸文六様の策謀に踊らされたことでありま した。それが私どもの夢を潰してしまいました」 「兄の禁平を殺めたのはそれがしだ」 「申されますな。たれよりも苦しまれたのは磐音様にございます。奈緒が一番承 知しております」 どこからともなく夜見世の始まりを知らせる清掻が聞こえてきた。 磐音はこのまま語り合うていたい、顔が見たいという願望に逆らい、 「奈緒どの、もはや刻限にござる。幸せにな」 奈緒の手が襖に掛かったのか、襖が揺れた。 「開けてはならぬ、奈緒どの。われら、関前を出たときから別々の道を歩む宿命 でござった」 血を吐くような磐音の言葉に襖が激しく揺れて、奈緒の嗚咽が磐音の耳に伝わ ってきた。 磐音は包平を引き寄せ握り締めると、茶屋の階段を駆け下りた。 このあと、もう一波乱がありましたが、何のことはありません。 紅花の里、山形まで送っていくこともあり得たのですから。。 |