住民大学講座C 2020年2月21日 現地調査:豊臣期大阪城を訪ねる(8km) 徳川期大阪城の石垣は三期工事のもの。 徳川期大阪城の石垣は一期工事のもの。 徳川期大阪城の石垣は二期工事のもの。 この穴は石を切るために開けたもの。今まで知りませんでした。決して、残念石ではありません。 昭和6年に完成した天守閣の石垣は、戦争末期に1トン爆弾が落ちて、ずれてしまったもの。部分的な修復で済ましています。大丈夫なようです。 金蔵の東側は、豊臣期に「詰ノ丸(ついのまる)」と呼ばれたところ。何年か前に発掘調査が行われたところで、その結果が公開されたので、わたしも見学しました。 現在は埋め戻されています。募金を集めて、本格的な公開のための工事をするようです。それなら埋め戻したりするなよ、と影の声がほざいています。 長い鉄柱のあたりに、石垣があるということだそうです。本日の講師のおかげで、「詰ノ丸」の場所が分かりました。 メインエベントは、天守閣広場の丸い井戸のようなものが公開されるということなり。封印が解かれるわけで、ワクワクしました。 昭和34年の総合学術調査の際に縦穴を掘り、そこに豊臣期の石垣があることが発見されました。 一部だけ開かれ、大部分は鉄柵が残っていますが、その間からも下が見えます。 最後に大きく開かれたところから、アップで写真を撮りました。石垣があることが分かります。 あとで、どこの石垣かを教えていただきました。感謝感激でございます。 解散後に外堀沿いに歩いて、桃園に行ってきました。期待に反して、ほとんど咲いていませんでした。考えてみれば、ソメイヨシノが咲くころに桃が咲くということを忘れていました。トホホ。。 |