勝龍寺城  2020年1月25日


大阪歴史博物館友の会見学会 (JR長岡京市駅発着)

またしても薄着で出かけたので、寒くて困りました。たいして歩かなかったので、暑さ対策よりも寒さ対策を優先すべきでした。神戸も、京都も風が冷たいようです。

ついこの前に「明智光秀」 (早乙女貢、文春文庫)を読んだばかりで、光秀が比叡山に逃れて天海和尚(大僧正)となり、家康の側近として豊臣家滅亡に手を貸したなどという話を読んだばかりなのですが、そのあたりをNHK大河ドラマはどう扱うのでしょうか?

それとは別に、光秀の首塚も(京都行に合わせて)訪れてみたいという願いも持っています。



JR長岡京市駅に集合。参加者は約40名でした。




風が冷たい駅前で説明あり。そのうち、「寒いので移動しましょう」の声あり。同感!

近場の神足(こうたり)神社と勝龍(しょうりゅう)城城跡を訪ねただけなので、ほぼ3kmしか歩いていません。本丸と資料館をウロウロしただけでした。



城の北東にあたる神足神社界隈に城の入口(正面の小さな土橋)があり、空堀と土塁がありました。わたしが立っている所(手前の土塁)は、城に入ろうとする敵兵を横から矢で射るところで、大阪城で言えば千貫櫓のようなものと説明していました。規模が小さくて、さほど効果があるとは思われませんでした。



本丸跡は堀で囲まれていました。




南側が本丸跡入口なり。




織田方の細川藤孝(忠興の父)が入城したあと、石垣を築くなど城郭となるよう改造したそうです。細川忠興と玉(明智光秀の娘、ガラシャ)が結婚し、しばらく住んだ城です。

後に、信長の命令で藤孝は丹後に移ったので、玉がこの城で過ごした日々は長くありませんでした。山崎の戦いの際、光秀が敗戦後に立ち寄り、夜の闇に紛れて坂本城に向かったようです。

その途中に、落ち武者刈りにあって最期を遂げたというのが定説なんですが、実は影武者だったという説もあり、この後も生き残つたとか。なるほどと思うところもあり、そうである方が面白味がありますね。



ガラシャおもかげの水、とか。




最も幸せだった頃の忠興と玉。




山崎の戦い。

光秀の布陣が遅れてしまい、山崎城のある天王山を秀吉軍に奪われてしましました。光秀が頼りにした細川藤孝、忠興は味方になることを拒否し、大和の筒井順慶は対岸の洞が峠で様子見をしたあと、敵側に付いてしまいました。



勝龍城から見た天王山。どれか、よく分かりません。。

手前の濃い山がそうだと思われます。



地図ではよく分かります。




11時半には、JR「長岡京市」駅前で解散したので、「梅田」まで戻りました。新しくなった阪神地下のスナックパークを久しぶりに訪れました。揚げたての海老天丼(500円)なり。