南朝関連史跡 2018年9月9日 「大阪歴史博物館友の会」の見学会に参加しています。午前中は千早赤阪村でした。昼食後は河内長野市の観心寺、金剛寺を訪れます。坂道を登ることが多いようですが、望むところと言っておきましょう。 観心寺では結局延々登るハメになりましたが、金剛寺ではそれほどでもなく、助かりました。すでに帰阪のバスに乗っていますが、自宅を出てから9km となりました。最終的に10kmを超えます。それこそ望むところなり。 ![]() ![]() ![]() 大阪を訪れた大久保利通の命により、堺県の税所篤が整えたようです。大阪府の五代友厚も含めて、みんな薩摩人です。 ![]() 資料館の中にあった千早城の模型です。NHKが造ったとか、おっしゃっていました。さすがに、難攻不落の山城だったわけです。 ![]() 別の登り口から下赤坂城址を訪れることになりました。かなりの時間ロスでしたが、過半数の方々の賛成で、こんな風になりました。ちなみに、わたしは賛成していません。 ![]() 有名になっている「下赤坂の棚田」です。下赤坂城趾から見えるわけです。 ![]() 観心寺山門に向かう。ここは楠木家の菩提寺でもあり、正成が8〜15歳まで仏道修行を学んだところでもあり、後醍醐天皇の命により正成が金堂(国宝)を建てた。 ![]() 後村上天皇御旧跡(旧惣持院跡) 金剛寺を攻められ、1359年12月〜1360年5月、この観心寺を行宮(あんぐう=天皇の仮の御所、政庁)とした。 ![]() 一番奥まったところに後村上天皇のお墓が在りました。 亡くなったのは住吉行宮だが、この観心寺で荼毘に付され、お墓も建てられた。 ![]() 楠木正成首塚。湊川の戦いのあと、敵である足利尊氏の命により首が観心寺に送られてきたそうだが、にわかには信じがたいところだ。それとも首が粗末に扱われた戦国時代の方が、異常だったのかも知れない。 ![]() 金剛寺の一番奥まったところに、北朝方の光厳上皇のお墓(分骨所)がある。金剛寺の坊さんのもとで出家・得度した縁があったようで、京都で亡くなったあと、遺髪が送られてきたので、それをまつったとのこと。 北朝方の3上皇と皇太子(1354〜57年)、南朝方の後村上天皇(1354〜59年)が金剛寺で暮らしていたようです。別の建物でしたが、お月見くらいは一緒に楽しんだかも知れません。 ![]() ![]() 大日如来を中心とした三尊像(国宝)を拝見させて頂きました。ただし、大日如来の両サイドの不動・隆三世明王はどちらも体が真っ黒なので、よく見えませんでした。 |