大坂の陣ウォーク (4) ほぼ11km  2015年11月14日


「塙団右衛門最期の地・樫井の合戦場と熊野紀州街道」でした。

ずいぶん前になりますが、今年の初めに3カ所を歩いたので、その仕上げのために遥々やってきました。

出かけに、はらはらと小雨が降っていましたが、現地ではほぼ3時間、全く雨が降りませんでした。




初めて降りた駅ですが、ここはどこだろうかと調べてみたところ、泉南市でした。最後に樫井川を越えると、泉佐野市に変わります。




いきなり山(林昌寺)に登った後、紀州街道に戻ってきました。この往生院を建てた人は、有名な道昭です。ただ秀吉の根来攻めの際に焼失したそうで、建立時からの二面石仏が残っています。




地図を見ていて気づいたのは、ここは前に来たことがあるということでした。「信達牧野」(しんだちまきの)の交差点から紀州街道を歩いて、ここまでやってきました。

野田藤の咲く名所で、その野田藤を見に来た次第です。そのときは車で来ました。




長慶寺、海会寺を訪ねながら、樫井川を渡り、やっとここまでたどり着きました。大野治房軍の先鋒と徳川方についた浅野長晟軍が激突したところです。ただ治房軍のまとまりはなく、塙団右衛門は岡部大学との先陣争いで消耗した模様なり。塙団右衛門や淡輪六郎兵衛が討ち死しました。



観音寺に、塙団右衛門の位牌(2つ)が残っています。そういえば浪人していた頃、鉄牛と名乗っていました。「鉄牛居士」が見えますか?




淡輪六郎兵衛墓碑。元々淡輪出身の武将なり。





塙団右衛門の墓です。この墓碑は、紀州藩士の小笠原作右衛門が、塙団右衛門直之の17年回忌(1632年4月)に建立したとされます。団右衛門の死後、その子孫は広島の福島正則の元に移ったようです。敵だった淺野家がやがて広島に移されたときに、出雲に逃げたそうで、その子孫が明治になってこの墓を補修し、当地の観音寺に位牌を納めたということでした。




八丁畷地蔵。このあたりから戦闘が始まり、樫井川あたりまでが戦場となった模様です。




ゴールの蟻通神社までたどり着きました。まあ、こんなものでしょう。特に疲れたわけではありませんが、丁度お腹が空いたので屋台でめぼしいものを購入しました。なお、あれもこれも有形登録文化財だということでしたが、弥生時代の創建とやらは信じられません。




丁度いい具合に端っこに腰掛けて昼食を摂っていたところ、おもむろに、お神楽が始まりました。ぐるり回って、正面からも撮りましたよ。