大坂の陣ウォー! キング!! (第1弾) 2015年2月15日 今日は「木村重成と大坂の陣戦跡コース」でした。 近鉄奈良線「若江岩田」駅から南に向かい、近鉄大阪線「八尾」駅までの 6.5kmですが、大幅に道を間違えたため、7kmは歩いたものと思われます。 二等辺三角形の左辺を歩くつもりが、右辺と底辺を歩いて修正しました。 「アリオ八尾」など見えないはずなのに、右側に見えたので、間違いに気がつきました。 まぁ、何とかなるわけだし、おかげで美味しいパスタのお店にも立ち寄ることができました。 秀頼の部下の中で最もイケメンだったのが木村重成です。 冬の陣、夏の陣と活躍するのですが、初戦の勝利で引き上げれば良かったのですが、そのまま敵陣に突っ込んで行き、戦死してしまいました。 誰もが死に急いだ風に思える、希望のない戦いであったことが明らかです。 ![]() ![]() 1、飯嶋三郎右衛門墓。木村重成軍に加わり、若江にて討死。三郎右衛門の子孫が岩田ムラに住み、この墓を建てたとされている。 2、若江(ムラ)の戦いで戦死した木村重成の名を取って、「若江木村通」となったようだ。 ![]() ![]() 3、木村重成陣屋跡。徳川方の藤堂隊を退けたあと、井伊隊と若江堤で戦い、戦死する。秀頼の乳母の子どもで、秀頼に近かった若武者である 4、連城寺・境内の位牌堂。木村重成の位牌がまつられているが、額縁の絵が色鮮やかにして、モロな(写実的ともいう)感じである。 ![]() ![]() 5、連城寺の隣にある若江鏡神社。この辺りが戦場だったようで、ボタンティアガイドさんの説明に人が群がる。聴きたいとは思ったが、諦めた。 6、木村重成墓。ここは八尾市である。第2寝屋川の開削工事のため50m西に移動した。この墓は、1764年、重成の150回忌にあたり、重成の首を落とした安藤長三郎の子孫が建てたものという。 ![]() ![]() 7、河内音頭で知られる常光寺。 8、商店街の河内音頭記念館(館長は河内屋菊水丸) |
大坂の陣ウォー! キング!!(第2弾) 2015年2月22日 近鉄八尾駅から出発して、八尾御坊→久宝寺顕証寺→平野郷と歩いて、約10kmでした。中途半端な雨のせいで、傘を開いたり閉じたり、の繰り返しでした。 予定通り(何度か行ったことがあるので‥)「長吉」はカットしました。 八尾ではガイドさんがいっぱい説明してくれましたが、思うような答えは得られませんでした。 なお、平野郷では説明は全くありませんでしたね。 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 昨年1月に初めて久宝寺を訪問して「八尾市まちなみセンター」にたどり着きました。 年表を見ながら、センターの方に教えてもらったことを思い出しました。 安井家の場所をお聞きしたところ、元の場所を教えていただいたのだが、今はないとのことだった。 年表に「1764年、久宝寺住民ら、安井一族から久宝寺屋敷地を買い取る」とあり、どうやら大坂(大阪市内)に移り住んだ模様である。 南組惣年寄を代々務めたとある通りのようである。「そもそもの土豪(領主)と一向宗徒では肌が合わなかったのかもしれない。」(←これは、予断なり。) ![]() ![]() ![]() 教如上人とそれに従った17人衆(東本願寺派)が、八尾寺内町の元をつくった。 大和川の付け替え後、久宝寺がさびれて、八尾が栄えたという。 ![]() ![]() ![]() 道明寺の戦いのあと、殿(しんがり)を務めた真田軍と徳川軍の戦いがあったとか(?) ![]() 樋尻口地蔵に、幸村が地雷を仕掛けたとき、家康はトイレに駆け込んでいたという話は「講談 難波戦記」にしか出てこないはず。 なお、地蔵の首が全興寺まで飛んでいったという話があるが、全興寺で尋ねたところ、8月末にしか公開しないらしい。行ってみるかな? ![]() わざわざ引き返して行った寺だが、なんと、前にも来たことがあった!安藤正次が自害したところなり。 平野は「大坂の陣」では(西末吉家が中心となって)徳川方についたわけで、そのためか、徳川情報の方がが多いように思われる。 |